熊谷家伝記
書誌
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原本に、佐藤家蔵本と宮下家蔵本がある。佐藤家蔵本は、熊谷家の15代徳五郎が、幕末に村民との争いが原因で公事に破れ、熊谷家の没落原因を作り、家出し、三河国河内村︵現愛知県北設楽郡豊根村︶の遠縁の佐藤家に寄寓し、さらに佐藤家から去る際に、佐藤家に譲り渡したもの、宮下家蔵本は、やはり徳五郎が、代々熊谷家と密接な関係を有していた信濃国和合村︵現長野県下伊那郡天龍村︶の宮下家に渡したものとされている︵市村咸人﹃熊谷家伝記﹄第4冊3頁︶。原本の表題は﹃家伝記﹄が一般的。佐藤家蔵本は、山崎一司等により愛知県旧富山村で復刻された。宮下本は信州大学教育学部附属中学校教諭らにより、抜粋・翻訳され、﹁信濃古典読み物叢書﹂の一冊となっている。市村咸人は、両原本を校訂して復刻している。なお熊谷家自体は復興し、現在も天龍村に末裔が存在する。
概要
編集一の巻
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初代貞直記。
熊谷直重の娘常盤と新田義貞との子である熊谷貞直は、伯父熊谷直方の養子となり、南朝=新田方に属したが、新田義貞が手越河原の戦いで敗戦した後、足利尊氏の追及を逃れて、三河奥地の多田氏を頼る。多田氏とその女婿の田辺氏らの援助を得ながら、信濃国境の左閑辺︵後の坂部︶を開拓し、その分内の源公平に文和年間に永住する。左閑辺︵さかんべ︶の地名の由来は、平安時代末期に源義仲︵木曽義仲︶が同地通過の際、﹁左善・阿閑﹂夫婦の辺りに宿泊したことにより、義仲が命名したという。
ちなみに熊谷氏の家紋は一般に﹁寓生︵ほや︶に鳩﹂﹁鳩に寓生﹂であるが、貞直記では﹁蔦︵つた︶に鳩﹂と伝える。
二の巻
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二代直常記、三代直吉記、四代直勝記。
直常は、貞直が住んだ源公平が狭く、不自由で、要害にも適さないので三河国境の佐太︵さぶと・三分渡︶を開郷。直常の許しを得て、村松正氏が見当・向方︵天龍村神原︶・新野︵阿南町且開︶を、後藤六郎左衛門が福島︵天龍村神原︶を開郷。
直吉は、左閑辺に移ったが、分内の風越山に金田法正が徒党を組んで侵入したので、合戦。その後和議を結び、法正にも分内を分与。村松氏らが太守と仰ぐ関氏初代、関盛春への服属勧誘を受けたが、拒絶し、戦って家来にせよ、と挑発し、郷内防衛に尽くしたところ、盛春は左閑辺に侵入しなかった。自領の自衛のみを考える﹁一騎立﹂としての立場を鮮明にしたといえる。
直勝は、熊谷山長楽寺を創建した。また関氏と敵対し続ける。関氏は下條氏と領地争いをし、戦国領主化していくが、熊谷氏は中立を守る。
三の巻
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五代直光記。
﹁一騎立﹂であった熊谷氏が関氏4代目の関盛常に服属する。﹁左閑辺︵さかんべ︶﹂を﹁左関辺﹂と誤記して、直光が関盛常に血判状を出した際、関盛常が提案して﹁坂部﹂と改まる。
直光が属する関氏が和知野川の戦いで下條氏を破る。
関氏5代目国盛が、傲慢となり、領内郷主が離反して謀反を起こし、関氏は滅亡。関氏領は下條氏に服属した。しかし基本的にまだ自衛的武力行使の段階。弘治元年︵1555年︶武田信玄に下條信氏が服したのに伴い、下條氏を通じて武田氏に臣従する。
四の巻
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六代直定記。
下條氏の配下にあった熊谷氏が、武田側の軍役要求に対し、遠国遠征の意義を見出せず、物納により、軍役免除。これにより、農家専業となる。兵農分離の一例。武田氏、豊臣氏による検地についての記述がある。
直定は、天正3年︵1575年︶の長篠の戦いに際し、武田勝頼配下の下條氏の陣にいた従兄弟の蓮心︵平谷玄蕃︶を三河国粟世︵現愛知県北設楽郡豊根村) に病気見舞いに行き、武田方の敗戦を目撃する。また武田勝頼の敗走の道案内をし、勝頼が通った坂が直定の通称にちなんで﹁治部坂﹂と名付けられる。
直定によれば先代の直光は叔父で、実父の直寿は甲州田野の桂徳寺隠居であるという。
五の巻
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七代直隆記。
知久氏の知久頼氏が豊臣秀吉の疑を受けて一家離散したが、頼氏の娘、千代鶴と千代が熊谷家に寄寓する。武家の浮沈を厭った千代鶴とその主従が、直隆の尽力で、夏焼を開郷し、農家となった。これが、この地域での最後の開郷となる。
千代は、熊谷直隆に嫁ぐ。武田氏滅亡後、徳川氏の配下となった下條氏長が些細な理由で、所領召し上げられる。徳川氏による惣検地についての記述がある。
また幕藩体制成立期に直隆は、名主職を得るが、家来・被官百姓が本百姓として独立する過程が記されている。慶長年間の大坂の陣では飯田城に出向いて軍役を負担する。
六の巻
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八代直祐記、九代直春記、十代直古記、十一代直昭記。
村役人を熊谷家以外のものが占めるようになり、それに従い熊谷家を軽んずる傾向が徐々に強まり、また熊谷家自体も没落していく。
火事が起こり、館を再建する借金の担保に大角家に、熊谷家の家宝の代々の記録を譲る。
七の巻
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十二代直遐記。
遐記の幼少時には家運が傾いており、寛延3年︵1750年︶から約4年間江戸へ放浪する。
帰郷後、大角久之丞から、熊谷家家宝の代々の記録を譲り受け、編纂し、改定する。それにより、熊谷家が幕藩体制成立期に有していた諸権利の存在を発見し、それらを復活させ、村民にも認めさせる。
系譜
編集参考文献
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●市村咸人編﹃熊谷家伝記﹄︵伊那史料叢書、1933︶、︵国書刊行会、1974︶
●山崎一司編﹃熊谷家伝記﹄︵愛知県富山村教育委員会、1989︶
●滝澤貞夫監修﹃熊谷家伝記﹄第14巻、信濃教育会出版部︿信濃古典読み物叢書 : 現代口語訳 / 信州大学教育学部附属長野中学校創立記念事業編集委員会編﹀、1995年。ISBN 4783910375。 NCID BA40214670。
●竹内利実﹃﹁熊谷家伝記﹂の村々﹄︵御茶ノ水書房、1978︶
●榊原和夫﹃落人の道-下伊那のかくれ里﹄︵誠文堂新光社、1984︶
●鈴木国弘﹁東国山間村落の開発と﹁縁者﹂の世界:﹃熊谷家伝記﹄の検討﹂﹃日本大学人文科学研究所研究紀要﹄第38号、日本大学人文科学研究所、1989年、1-24頁、ISSN 02866447、NAID 40002978623。
●山崎一司﹃熊谷家伝記のふるさと﹄富山村教育委員会、1992年。 NCID BN07997404。全国書誌番号:94027107。
●笹本正治﹃天竜川の淵伝説 : ﹁熊谷家伝記﹂を中心に﹄建設省中部地方建設局天竜川上流工事事務所、1992年3月。 NCID BA60622079。
●米家泰作﹁<論説>﹃熊谷家伝記﹄にみる開発定住と空間占有 : 落人開村伝説の読み解き﹂﹃史林﹄第80巻第1号、史学研究会 (京都大学文学部内)、1997年1月、doi:10.14989/shirin_80_38。
●米家泰作﹃中・近世山村の景観と構造﹄校倉書房、2002年。ISBN 4751733508。 NCID BA59208797。
●米家泰作﹁日本・中近世山村の歴史地理学的研究﹂京都大学 博士論文 (文学) , 甲第7075号、1998年、doi:10.11501/3135229、NAID 500000156107。
●米家泰作﹁書評 笹本正治著﹃山に生きる:山村史の多様性を求めて﹄﹂﹃史林﹄第86巻第1号、史学研究会 (京都大学文学部内)、2003年1月、122-127頁、doi:10.14989/shirin_86_122、ISSN 03869369、NAID 120006598204。
●笹本正治﹃山に生きる : 山村史の多様性を求めて﹄岩田書院、2001年。ISBN 4872942108。 NCID BA53181348。