猪飼敬所
1761-1845, 日本の江戸時代後期の折衷学派の儒学者。名は彦博、字は文卿、希文。著作に﹃論孟考文﹄﹃管子補正﹄など。
人物 編集
経書や史書など、各種書物に詳しく、大和の儒学者谷三山の質問数十条にも答えたように、たいへん博識であった。中でも経書、特に三礼に精通していた[2]。著作に﹁論孟考文﹂﹁管子補正﹂などがある。
初めは石田梅岩の心学に傾倒して手島堵庵に師事するが、天明3年︵1783年︶に儒学を志して巌垣竜渓の門下に入る。京都、淡路洲本、但馬豊岡など各地で講説。天保2年︵1831年︶伊勢津藩主藤堂高猷に招かれて津藩儒となる。天保3年︵1832年︶9月8日、伊勢の津へ行くに際し挨拶のため頼山陽を訪れたが、山陽が瀕死の床にあるとは知らず、歴史を論じて北朝正統論を強く主張し、﹁今の朝廷は北朝の系統であるから、君は北朝の臣ではないか﹂といって山陽の怒りを買った。しかし、敬所は自説を曲げなかった。山陽は、9日後の9月17日にこの論争について篠崎小竹に語り、その6日後に没した。
天保9年︵1838年︶、藩主や門人の願いにより、京都から津に移住。晩年は両目を失明したが、それでも藩主に対し講義を続けた[2]。弘化2年︵1845年︶11月10日死去、享年85。
大正13年︵1924年︶、従五位を追贈された[3]。
現在、津市立西橋内中学校の北隣にある龍津寺の門前に、猪飼敬所先生墓所と刻んだ石柱が建っている。