王戎
生涯
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幼い時の神童振りは、曹叡︵明帝︶や阮籍にも認められていた。阮籍は父とも友人であったが、自分よりも20歳若い王戎と語らうことを好んだ。父が亡くなると、昔の家来達が香典を持って弔問に訪れたが、王戎は付け届けの類を全て受け取らず、名声を高めた。
王戎の体格は小柄であったが、堂々と振舞い、必ずしも礼に拘ることはなかった。話し好きで知られ、酒を嗜みながら阮籍達と竹林で遊んだ。蜀征伐に赴く鍾会に相談を持ちかけられた際、道家の言葉を引きながら語った発言は、鍾会の命運を見通したものであったため、識者に評価された。
父の爵位を継いだ後は、司馬昭の招聘を受けて魏・晋で官職を歴任した。司馬昭の死後、司馬炎から吏部黄門・散騎常侍・河東太守・荊州刺史と順番に任じられたが、荊州刺史の時に役人を私的な用事に使ったため、免職となりそうになった。しかし罰金で済まされた。泰始8年︵272年︶、呉の歩闡が帰順して来た際、軍法違反のため羊祜から斬られそうになった。この時も王戎は助かったが、同じく羊祜に批判された王衍と共に、羊祜の悪口を言い散らした。世人は王氏の威風を憚って、羊祜には徳が無いと噂するようになった。
その後、豫州刺史に転任し、建威将軍に任命された。咸寧5年︵279年︶からの呉侵攻︵呉の滅亡 (三国)︶では、武昌に侵攻して王濬と共に呉を滅亡に追い込む功績を挙げた。その功績で安豊亭侯の爵位を得た。呉の人々に恩寵を施し、多くの人を心服させ侍中となったが、贈賄の疑いをかけられた。武帝︵司馬炎︶はそれを庇っている。
﹃晋書﹄は政治家としての王戎について、特別の能力はなかったが多くの功績がついてきたため、高官にまで昇ったとしている。光禄大夫・吏部尚書まで官職が昇ったところで、母の喪に服するために官を離れた。王戎は礼に拘る人間ではなかったが、父に対して親孝行であったため、瞬く間にやつれていった。その様子は劉毅に﹁死孝﹂であると評され、身の安全を心配した武帝は、王戎に薬を与え医者に係らせた。
武帝の没後、外戚の楊駿が実権を握ると太子太傅に任命された。楊駿が誅殺されると、それに功績のあった東安公司馬繇が勝手な振る舞いをしたため、これを諌めた。王戎は光禄大夫・中書令となった。王戎は﹁甲午の制﹂と呼ばれる官吏登用制度を始めたが、不正の温床となっていると指弾された。しかし王戎がそれでも地位を保てたのは、外戚の賈氏や郭氏と結びついていたからであった。
元康7年︵297年︶、官位はついに三公である司徒まで昇った。しかし永康元年︵300年︶、娘婿の裴頠に連座し免職となった。その後も、朝廷の要職へ就いたにもかかわらず八王の乱の政治的混乱の中、積極的な政治力を発揮することはなかった。またそれ故に殺害されることもなかった。
永興元年︵304年︶、司馬衷は成都王司馬穎を親征し大敗、これに従軍していた王戎は翌永興2年︵305年︶に72歳で没した。子の王万が若死し、王興も庶子であり後継できなかったため、縁戚の者に後を継がせた。
人物
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﹁名声﹂の有する危険性を逸早く察知し、為政者から要らぬ嫌疑を受けぬ様、吝嗇の汚名に因り故意に名声を低めようとした。父の王渾が死去した時、涼州時代の故吏たちから銭数百万の香典が寄せられた際、彼は一切受領しなかった。これが彼本来の性向で、父の死に動転した余り思わず﹁芝居﹂を演じ忘れた物であった。
若い頃から文才に優れ、荀寓︵荀彧の三男の荀俁の子︶や杜黙らと親交があった。また光禄大夫の時に、鄧艾の孫の鄧千秋を武帝に推挙し、鄧艾の名誉回復にも尽力した。さらに旧呉の石偉という人物を採り立てている。
﹃世説新語﹄では幼い時に神童であったが、長じて吝嗇家として知られるようになったとされ、相反するような方面での逸話が残されている。例えば﹁庭の李を売っていたが、李は発芽しないよう種に穴を開けて売られていた﹂・﹁甥が結婚する際に着物を用意したが、後で代金を請求した﹂・﹁娘が裴頠のところへ嫁入りした時、銭数万を贈った。その後、彼女が里帰りしても王戎が不機嫌なので、慌てて銭金を返すと急に笑顔を見せた﹂等の話がある。
参考
編集- 小松英生『『晋書』王戎伝訳注』