田川務
概要
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長崎県北高来郡小長井村︵現諫早市小長井町︶出身[3]。尋常小学校卒業後、長崎地方裁判所の給仕となり[3]、その後、独学で弁護士の資格を得る[3]。1951年︵昭和26年︶4月の長崎市長選挙で現職の公選初代市長大橋博と弁護士の木原津与志を破り当選、以後4期16年に及び市長を務めた。
市長在任中、1955年︵昭和30年︶にアメリカ合衆国セントポール市と日本国内では初となる姉妹都市提携を結んだ。また、1958年︵昭和33年︶に原爆投下時に全壊した浦上天主堂の廃墟の撤去を決定。撤去後の跡地に翌1959年︵昭和34年︶に被爆前の天主堂を模した新しい天主堂が建てられた。撤去に至る経過についてはカトリック浦上教会#原爆遺構の保存問題を参照。
1967年︵昭和42年︶、4期目の任期切れに伴う市長選に出馬せず政界引退。1968年︵昭和43年︶、勲四等旭日小綬章受章。1969年︵昭和44年︶3月29日、長崎市名誉市民の称号を受けた[3]。
1977年︵昭和52年︶9月5日、長崎市内の病院で死去︵享年79︶。同月19日、長崎市公会堂にて長崎市による公葬が営まれた。
脚注
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(一)^ ﹁﹁100年に一度の元気作りを進める﹂ 鈴木史朗氏が出馬表明﹂﹃朝日新聞デジタル﹄2022年12月15日。2023年8月7日閲覧。
(二)^ ﹁﹁8月9日は母の誕生日。生まれた時から特別な日だった﹂被爆二世の鈴木市長・その両親が語る被爆体験︻被爆78年 NO MORE…#5︼﹂﹃長崎放送﹄2023年8月7日。2023年8月7日閲覧。
(三)^ abcd﹃日本の歴代市長﹄第3巻、559頁。
参考文献
編集- 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第3巻、歴代知事編纂会、1983年。
17代 大橋博 (長崎市長) |
長崎市長 18 - 21代:1951.4 - 1967.5 |
22 - 24代 諸谷義武 |