疋田氏 (佐竹家重臣)
系譜
編集著名な人物
編集- 疋田定盛(ひきた さだもり)
秋田藩士。斎之助。疋田市兵衛忠重︵ただしげ︶の養子。佐竹義処近習に召され、出頭地に異なり延宝4年︵1676年︶3月4日四番大小姓頭御祐筆支配を勤める。元禄3年︵1690年︶11月4日江戸で家老職、同14年︵1701年︶2月6日病気退職。禄高九百七十石。
●疋田定静︵ひきた さだきよ︶
久太夫。初名、定宣︵さだのぶ︶。佐竹義敦に仕え宝暦12年︵1762年︶4月27日家老。明和元年︵1764年︶10月13日退職。
●疋田定常︵柳塘︶︵寛延3年︵1750年︶10月21日 - 寛政12年︵1800年︶12月13日︶
天明元年︵1781年︶11月1日から死没するまで秋田藩家老。名は定常︵さだつね︶、九華、また定常に復した。あざなは考祥、通称鶴治、斎︵いつき︶別号に自怡斎、聴松館。
松浦静山の名著﹃甲子夜話﹄に、こんな話がある-江戸の金貸しが秋田藩江戸邸に融通たものの、なかなか返済がない。やむなく町奉行に訴え出た。これに対し秋田藩では、﹁貧しい財政なので返せない。20年間幕府に藩の生計を委嘱しようか﹂と答えたので、奉行所でもあきれ顔した。佐竹義敦時代のことで、秋田城下では貸し金が戻らぬため、間杉屋五郎八︵土崎︶の割腹事件もあったほどだ。
豪華殿様とよばれた半面、このような火の車の財政であったが、佐竹義敦・佐竹義和の二人の藩主に仕え、財政の苦難を知恵で幾度も切り抜けた。佐竹は破産したと称して大阪商人の証書を焼かせたり、幕府目代の藩派遣を止めさせたりしたのは、その一例である。
文人家老としても著名で、﹃自怡斎随筆﹄﹃東海道中記﹄﹃自怡斎吟稿﹄﹃柳塘詩集﹄﹃盗光伝﹄などがあり、また津村正恭﹃譚海﹄の序文も書いた。佐藤信淵を排斥したことでもも有名。墓碑は山本北山の文。51歳で江戸邸没。愿恭院殿結山政繩居士。墓は東京総泉寺と秋田市闐信寺。子が松塘である。
●疋田厚綱︵松塘︶︵安永8年︵1779年︶12月27日 - 天保4年︵1833年︶7月17日︶
享和元年︵1801年︶7月5日から文化14年︵1817年︶1月23日まで、また文政3年︵1820年︶1月23日から天保3年︵1832年︶2月11日まで秋田藩家老。名は初め定綱︵さだつな︶、のち佐竹義厚より偏諱を与えられて厚綱︵ひろつな︶に改名。字が伯紀。通称久馬、のち斎。別号に春風桜、致政館︵堂︶、雪堂、十雪堂。父柳塘以上の華やかな才能で知られた。
佐竹義和時代、亀田藩との境界争い、松前出兵を手がけ、学を奨励し、秋田の地に文化の花を咲かせたことは、当時の文人、儒者の数でわかるだろう。京坂に出かけた時、介川緑堂、大窪詩仏を通じて村瀬栲亭をスカウトして、藩校︵明徳館︶に招いたのも彼である。水野大老の土方縫殿助、井伊家の岡本半助と共に、≪三家老≫とよばれた。
父に似て文人でもある。﹃ゑんま庁噺﹄﹃ゑんま大王の申渡﹄の戯作のほか、﹃春風桜吟稿﹄﹃長堤竹枝詞三十首﹄﹃子孫教訓のうた﹄﹃松塘詩集﹄の著があることでも、人物の大きさが知れる。佐藤信淵をきらったことは父と同様であった。55歳没。致広院。墓秋田市闐信寺。子が明徳館総裁の錦塘︵定紀︶。知行高二千二百三十九石四升五合︵文政4年︵1821年︶の分限帳による︶
●疋田定紀︵錦塘︶︵享和3年︵1803年︶1月22日 - 文政9年︵1826年︶7月14日︶
称鶴治、勝三郎、久馬、別号菱塘。松塘の男。字伯理、名は定紀︵さだのり︶。母岡本元亮女。22歳で国学総裁。24歳没。幽芳院﹇升﹈。
●疋田定経︵ひきた さだつね︶
秋田藩士。斎と称し、久馬、久大夫。九七十石。佐竹義和に仕え、享和元年︵1801年︶7月5日執政。文化14年︵1817年︶7月29日病気退役。疋田家の執政職は六代続く。
●寺崎広業︵日本画家・帝室技芸員・東京美術学校教授︶
佐竹藩家老出の寺崎広知の長男。母は、疋田氏の娘﹁ひさ﹂である。不幸にも母は妊娠中離縁になり、疋田邸で広業を生んだ。
●佐藤信郎︵耳鼻咽喉科博士︶
﹁疋田ひさ﹂は、後に佐藤家に嫁いで佐藤信郎を生んだ。
久保田藩疋田家を題材とした作品
編集- 山本周五郎『三十二刻』(一人ならじ)新潮社ISBN 4101134316 C0193
菩提寺
編集- 西法寺(秋田県秋田市大町)
- 総泉寺(東京都板橋区)
- 全良寺(秋田県秋田市八橋本町)
- 大澤山闐信寺(秋田市手形)
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西法寺疋田氏墓所
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大澤山闐信寺疋田氏墓所
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大澤山闐信寺疋田氏墓所
参考文献
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