益州
先秦時代
編集秦漢時代
編集魏晋南北朝時代
編集隋代
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隋初には益州は7郡19県を管轄した。582年︵開皇2年︶、新州の玄武郡が廃止され、その管轄県の伍城県が益州に移管された。583年︵開皇3年︶、隋が郡制を廃すると、益州の属郡は廃止された。607年︵大業3年︶に州が廃止されて郡が置かれると、益州は蜀郡と改称され、下部に13県を管轄した[5]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
隋代の行政区画変遷 | ||||||||||
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区分 | 開皇元年 | 区分 | 大業3年 | |||||||
州 | 益州 | 新州 | 郡 | 蜀郡 | ||||||
郡 | 蜀郡 | 犍為郡 | 九隴郡 | 広漢郡 | 晋熙郡 | 金淵郡 | 武康郡 | 玄武郡 | 県 | 成都県 郫県 双流県 新津県 晋原県 清城県 九隴県 雒県 綿竹県 金淵県 陽安県 平泉県 玄武県 |
県 | 成都県 温江県 郫県 新繁県 広都県 |
僰道県 新津県 晋原県 清城県 |
九隴県 青陽県 隴泉県 興固県 |
雒県 新都県 |
陽泉県 | 金淵県 | 陽安県 婆閏県 |
伍城県 |
唐代
編集宋代以降
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981年︵太平興国6年︶、北宋により成都府は益州に降格された。988年︵端拱元年︶、益州は成都府の称にもどされた。994年︵淳化5年︶、成都府は益州に降格され、剣南西川節度が廃止された。1060年︵嘉祐5年︶、益州は成都府の称にもどされた。成都府は成都府路に属し、成都・華陽・新都・郫・双流・温江・新繁・広都・霊泉の9県を管轄した[7]。
元により成都府は成都路と改められた。成都路は四川等処行中書省に属し、録事司と9県7州州領11県を管轄した[8]。
1371年︵洪武4年︶、明により成都路は成都府と改められた。成都府は四川省に属し、6州25県を管轄した[9]。
清のとき、成都府は四川省に属し、3州13県を管轄した[10]。
1913年、中華民国により成都府は廃止された。