矢部禅尼
日本の鎌倉時代の人物、三浦義村の娘、北条泰時の正室
生涯
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建久5年︵1194年︶2月2日、泰時︵当時12歳︶が元服した際、源頼朝は三浦義澄に、泰時を婿とするよう命じた[1]。この数年後の正治2年︵1200年︶頃に泰時に嫁いだとされる。建仁3年︵1203年︶に長男時氏が産まれるが、後に泰時と離別している。時期は不明だが、泰時の後妻である安保実員の娘が泰時の次男時実を建暦2年︵1212年︶に産んでいる事から、それ以前には離縁したものと考えられる。離縁の理由は特に不仲が生じたわけでもなく不明である[2]。
その後、三浦氏佐原流の佐原盛連に再嫁して三子︵佐原光盛・加納︵三浦︶盛時・横須賀時連︶を産み、夫・盛連の死後は三浦矢部郷に帰って出家し、法名禅阿、矢部禅尼と称した。嘉禎3年︵1237年︶6月、幕府から矢部禅尼に和泉国吉井郷が与えられ、孫の時頼が三浦矢部郷まで下文を届ける使いをしている。北条氏との対立によって三浦一族が滅亡した宝治元年︵1247年︶の宝治合戦では、佐原氏の多くは三浦氏側について滅んだが、矢部禅尼の子達およびその異母兄たちは北条氏側として戦っており、彼女が関わっていたと考えられる。盛時は後に三浦姓を名乗って三浦家を再興している︵相模三浦氏︶。
建長8年4月10日︵1256年5月6日︶、不食の所労により70歳で死去。時頼は祖母の死にあたり50日の喪に服している。
略系図
編集凡例 1) 実線は実子、点線(横)は婚姻関係。 2) 数字は執権の代
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| 三浦義明 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 義澄 |
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| 北条義時2 |
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| 義村 |
| 佐原義連 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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安保実員娘 |
| 泰時3 |
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| 矢部禅尼 |
| 盛連 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 時実 |
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| 時氏 |
| [蘆名氏] 佐原光盛 |
| [相模三浦氏] 三浦盛時 |
| [新宮氏] 横須賀時連 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 経時4 | 時頼5 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
関連作品
編集脚注
編集参考文献
編集- 細川重男『宝治合戦 北条得宗家と三浦一族の最終戦争』朝日新聞出版〈朝日新書 876〉、2022年8月30日。ISBN 978-4-02-295185-4。(電子版あり)