竹中重利
竹中重利 | |
---|---|
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
生誕 | 永禄5年(1562年) |
死没 | 元和元年10月16日(1615年12月6日) |
別名 | 源助(通称)、重信、重義、隆重、重隆 |
戒名 | 春岩院殿逸峯玄俊大居士 |
墓所 | 大分県大分市荷揚町の浄安寺 |
官位 | 従五位下伊豆守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 竹中重治、豊臣秀吉、秀頼、徳川家康、秀忠 |
藩 | 豊後府内藩主 |
氏族 | 竹中氏 |
父母 | 竹中重光または竹中重広 |
兄弟 | 重利、重定 |
妻 | 竹中重元娘 |
子 | 重義、重信 |
略歴
編集
永禄5年︵1562年︶に生まれる。﹃寛政重修諸家譜﹄では父を竹中重光︵竹中重元の弟︶とするが、諸系図では竹中重広︵与右衛門、竹中重元の子︶の子として重元の孫とする[1]。羽柴秀吉の参謀竹中重治の従弟か甥にあたるが、正室は重治の妹で、同時に義弟にもあたるため、しばしば弟との表記もある。
竹中重治の知行地から美濃国長松城[2]3,000石を分けて貰っていたが、天正7年︵1579年︶、重治が死去したので、秀吉の直臣となった。
天正18年︵1590年︶、森忠政の家人と美濃恵那郡、土岐郡を検地した。同年の小田原征伐には馬廻組頭として参陣した。
文禄3年︵1594年︶、豊後国国東郡高田で1万3,000石に加増されて大名となった。文禄・慶長の役では二度とも従軍。特に慶長の役では先手衆の軍目付6人の内の1人に選ばれた。この頃、従五位下伊豆守に叙任された。
慶長3年︵1598年︶の秀吉の死により遺物義光の刀を受領した。
慶長5年︵1600年︶の関ヶ原の戦いでは、初め西軍に与して大坂久法寺町橋や近江瀬田橋を警備し、丹後田辺城攻めにも兵を派したが、後に黒田如水に誘われて東軍に転向して所領安堵された。
戦後に荷揚城︵大分城︶を与えられ、豊後府内2万石に加増転封される。城の大改修を行い現在の規模とし、港や城下町を整備し、現在の大分市の発展の基礎を築いた。
元和元年︵1615年︶10月16日、54歳で死去した。跡を長男の重義が継いだ。
茶を古田織部に学んだ弟子の一人。
系譜
編集脚注
編集参考文献
編集- 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、147頁。