篠原温亭
俳人、小説家
篠原 温亭(しのはら おんてい、1872年3月9日(明治5年2月1日) - 1926年(大正15年)9月2日[1])は、俳人、小説家。
概略
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1872年︵明治5年︶、熊本県宇土郡宇土町︵現・宇土市︶に生まれる。本名は英喜。別号に松濤、家巣など。父親は漢学塾長。京都本願寺文学寮︵現・龍谷大学︶に学んだのち上京し、徳富蘇峰が主宰する﹁國民新聞﹂に勤め活躍した[2]。
その傍ら、ホトトギス同人となり、正岡子規、高浜虚子らに俳句を学んだ。温厚な人柄で、人望があった。1922年︵大正11年︶、俳誌﹁土上︵どじょう︶﹂を嶋田青峰らと共に刊行した[3]。俳句は﹁温籍高雅﹂の作風で、虚子編﹁新歳時記﹂には27句が採用されている。1926年︵大正15年︶、55歳で脳溢血により没した[3]。墓所は﹁帰命山養玉院如来寺﹂︵東京都品川区西大井5-22-25︶にある。[4]
著書は、小説﹁不知火﹂﹁二年越﹂﹁昔の宿﹂、随筆﹁その後﹂などがあり、没後に嶋田青峰により﹁温亭句集﹂が編纂・刊行された[5]。長女小枝子は柴田宵曲と結婚した。
句碑
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大井の大仏︵おおぼとけ︶として親しまれている﹁帰命山養玉院如来寺﹂︵品川区西大井5-22-25︶の参道途中右側のイチョウ古木前に、温亭句碑︵1985年建立︶がある。
●一本の銀杏を廻り落葉掃く
調布市の深大寺の境内の香炉すぐ横に、調布俳句会の指導者であり、深大寺句会で詠んだ温亭句碑がある。
●はせ栗の落つれば拾ふ住居哉
熊本県宇土市の旧城下町の面影を残す船場橋・通称眼鏡橋の端に、温亭句碑がある。
- 新涼や水深くみて橋渡る[4]