紀広庭
紀 広庭 | |
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時代 | 奈良時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 宝亀8年6月12日(777年7月21日) |
官位 | 従四位下参議 |
主君 | 称徳天皇→光仁天皇 |
氏族 | 紀氏 |
父母 | 父:紀麻路 |
兄弟 | 広名、広庭、小楫、鯖麻呂 |
経歴
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天平宝字8年︵764年︶10月に藤原仲麻呂の乱における功績により従五位下に叙せられ、上総介に任ぜられる。のち、勅旨少輔・河内介を歴任する。河内介在任中の神護景雲3年︵769年︶に道鏡の出身地に設営された由義宮︵河内国︶への称徳天皇の行幸の供をする[2]。まもなく由義宮を西京として、その所管を行うための官司として河内国が河内職に改編されると、その亮に任ぜられ、従五位上に昇叙された。翌神護景雲4年︵770年︶4月には摂津亮・内蔵若人と共に造由義大宮司次官を兼任する。同年8月称徳天皇の崩御・道鏡の失脚後に、河内職が河内国に戻されると河内守に任ぜられている。
光仁朝に入ると、宝亀2年︵771年︶正五位下、宝亀4年︵773年︶従四位下と順調に昇進し、宝亀6年︵775年︶参議に任ぜられ公卿に列した。またこの間、河内守・兵部大輔を歴任している。宝亀8年︵777年︶6月12日卒去。最終官位は参議従四位下美濃守。
官歴
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注記のないものは﹃続日本紀﹄による。
●時期不詳‥正六位上
●天平宝字8年︵764年︶10月7日‥従五位下。10月20日‥上総介
●神護景雲元年︵767年︶8月29日‥勅旨少輔
●神護景雲2年︵768年︶11月13日‥河内介
●神護景雲3年︵769年︶10月30日‥従五位上、河内亮
●神護景雲4年︵770年︶4月1日‥造由義大宮司次官。8月28日‥河内守
●宝亀2年︵771年︶11月24日‥正五位下
●宝亀4年︵773年︶ 正月7日‥従四位下
●宝亀5年︵774年︶3月5日‥兵部大輔
●宝亀6年︵775年︶9月27日‥参議
●宝亀8年︵777年︶ 正月‥兼美濃守[1]。6月12日‥卒去︵参議従四位下美濃守︶