絲原武太郎 (12代)
12代 絲原 武太郎︵いとはら ぶたろう、1853年11月10日︵嘉永6年10月10日[1][2]︶- 1911年︵明治44年︶3月10日[3]︶は日本の地主、実業家、政治家。鉄師絲原家12代、貴族院多額納税者議員。
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経歴
編集産業振興の働き
編集鉱業
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家業の製鉄事業︵たたら製鉄︶は、外国産の輸入の拡大によって打撃を受けた。そこで、1882年︵明治15年︶頃より工部省、海軍省に製品の買い上げを働きかけると共に、専門家の派遣を依頼して品質の向上を図った結果、海軍省への納入の拡大を実現した[8]。
農業
編集仁多郡内の農業不振に対応するため有志と仁多郡農談会を組織して会長に就任し、農家への啓蒙と技術の向上を図り、島根県から農事試験委員を嘱託された。また、三成村に私費で農事試験場を設置して種苗の試験を行い、優良な種苗を選別して農家へ供給した[9]。
林業
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特に林業の発達に力を尽くした。仁多郡の山林は良材林が少なかったため、杉、檜の植林を推進した。当初、苗木の作成方法の未熟により枯死が多かった。そのため、吉野地方の杉檜の良種を求め、園丁を苗木作成の方法を習得のため島根県農事試験場に派遣し、その成果を私設農事試験場で用いて苗木を作成して供給し、また、希望者には作成方法を伝習するなど、造林事業の振興を図った[10]。
蚕業
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仁多郡は比較的蚕業に適しているもかかわらず振るわなかったため、自ら滋賀県から良苗を購入して桑園を作り養蚕を行い、経験を積んだのちに蚕業の普及に努めた。また、農商務省から招いた技師の講話から、収穫量を高めるには蚕紙の優劣が重要と悟り、長野県から優良な蚕紙を導入した[11]。
畜産業
編集親族
編集脚注
編集参考文献
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●衆議院・参議院編﹃議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑﹄大蔵省印刷局、1990年。
●成瀬麟、土屋周太郎編﹃大日本人物誌 : 一名・現代人名辞書﹄八紘社、1913年。
●深田豊市編﹃島根鳥取名士列伝 下﹄博進館、1906年。
●大植四郎 編﹃国民過去帳 明治之巻﹄尚古房、1935年。