良忠 (二条家)
南北朝時代の天台宗僧侶
良忠(りょうちゅう、生年未詳 - 建武元年(1334年)12月?)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての天台宗の僧。一般的には「殿法印」(とののほういん、表記は「殿ノ法印」「殿の法印」とも)の呼び名の方が有名である。
家系
編集略歴
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時期不明ながら、天台座主となった尊雲法親王︵後の護良親王︶に伺候するようになる。尊雲法親王が還俗し、兵を挙げるようになってからもそれに従うが、元弘2年︵1332年︶6月21日に笠置山の戦いで後醍醐天皇︵護良親王の父︶が敗北すると捕縛され、一時六波羅探題の獄につながれる(﹃太平記﹄巻四︶。その後も護良親王の令旨を受けた赤松則村︵円心︶配下となって元弘3年︵1333年︶5月の六波羅探題攻撃に加わり、6月23日の入洛の時には則村︵一番隊︶の次、二番隊の700騎余りを指揮していたという︵﹃太平記﹄巻十二︶。
しかし、良忠配下の兵は統制が取れておらず、六波羅攻撃の際に便乗して洛中にて狼藉を働き、強盗を行った。その兵20名は足利高氏︵後の尊氏︶の配下に捕らえられ、斬首の上六条河原にさらし首になったが、この事件は以前からの護良親王と足利尊氏の不和を決定的にした。その後は護良親王派と足利尊氏派の対立が激化、建武の新政が不安定になる一因となった。
建武元年︵1334年︶、遂に護良親王は父・後醍醐天皇の命により捕らえられ、鎌倉の足利直義︵足利尊氏の弟︶のもとに護送される。その後史料で良忠の消息を明確に書いた物はないが、護良親王捕縛時に良忠も他の護良親王側近と共に捕らえられ、一緒に鎌倉に護送、同年12月に殺害されたと推測される︵﹃太平記﹄巻十二︶[1]。