菅野八郎
経歴
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●1810年8月15日 - 金原田村に出生。父は和蔵。
●1853年 - 6月のペリー来航後、9月に八郎の一族菅野氏が、伊達に入植して550年を記念したとされる開祖碑が建立。
●1854年1月 - 八郎が霊夢によって告げられた東照大神君からの神託に基づく海防策を幕府へ言上するため[2][3]、梁川・桑折の両代官所に添書を依頼。拒否され、箱訴のため江戸へ向かう。その途上の2月、神奈川で米国船を見る。その後、妻りつと長男を離縁。
●1855年1月28日 - のちに後妻となるヤノの妹の夫である太宰清右衛門に宛てて﹁秘書後之鑑﹂を書き送り、攘夷を標榜した水戸家への召し抱えを祝う。太宰は保原にあった淀屋の江戸支配人であった。
●1858年11月 - 安政の大獄に際して、太宰清右衛門が捕縛されかけた際、﹁秘書後之鑑﹂が幕府方に発覚。八郎は捕縛され、安政の大獄関係者が収監されていた伝馬町牢屋敷で取り調べを受ける。同じく入牢中の吉田松陰が、久保清太郎・久坂玄瑞宛の安政6年8月13日付書簡で、八郎に言及する。
●1859年10月 - 八丈島遠島を申し渡される。
●1860年 - 八丈島に到着。近藤富蔵と知り合う。富蔵によれば、八郎は八丈島にはじめて養蚕法を伝えたという。梅辻規清を訪問し、﹁真天暦﹂を授与されたという。
●1863年11月 - ﹃蚕飼八老伝﹄を執筆する。
●1864年8月 - 赦免される。この頃太宰清右衛門は天狗党の筑波山挙兵に加わり、長崎出島で10月20日頃に自害。帰郷後、八郎は武術鍛錬の農民組織﹁誠心講﹂を結成。
●1866年6月15日 - 信達農民騒擾が起こる。八郎が背後で糸を引いているとの噂が流れ、江戸や上方では﹁世直し八郎大明神﹂とのかわら版が出回る。しかし、同年6月19日に八郎は、梁川代官所に無実の訴状を出す。7月に出頭し代官所牢獄にそのまま収監される。
●1868年7月 - 収監以来の詮議が、戊辰戦争による薩長を中心とする新政府軍の福島進駐を契機に打ちきられ、八郎は再び放免。
●1874年8月 - 何らかの事件に連座して再び一年間収監。
●1882年 - 自らが得た知識をまとめた﹃真造辨八老信演﹄を執筆[4]。
●1888年1月2日 - 死去。
脚注
編集- ^ 現在の福島県伊達市保原町、旧伊達郡保原町にあたる。
- ^ 青野 誠 (2016). “幕末期民衆における「家」・「個人」意識と超越観念―菅野八郎の士分化運動を事例として―”. 日本思想史研究 48 .
- ^ 青野 誠 (2018). “幕末維新期の民衆における世界観と自他認識の変容――菅野八郎における「異国」「異人」認識――”. 日本思想史学 50 .
- ^ 青野 誠 (2019). “明治初期民衆における天文観と天人唯一思想 一菅野八郎『真造辨八老信演』についてー”. 年報日本思想史 (日本思想史研究会) 18 .
関連項目
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●淀屋 ︵保原町︶- 真綿糸問屋で保原町の現郵便局付近に本店を構え、伊達郡内きっての﹁豪商﹂であった。江戸の本石町十軒店︵日本橋︶に出店を有した。江戸初期以来の淀屋との関係は不明。
●浅野清治 - 元淀屋の専務、青年期に信達農民騒擾にも参加した地方名望家。
参考文献
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●庄司吉之助・安丸良夫ほか校注﹃日本思想大系 第58巻 民衆運動の思想﹄岩波書店、1970年。
●﹁あめの夜の夢咄し﹂、﹁百姓生活と八郎の意見﹂、﹁小児早道案﹂、﹁八老十ヵ条﹂、﹁慶応二年百姓一揆指導説に対する意見﹂、﹁代官・名主の不正指摘と八郎赦免願い﹂、﹁八老独年代記﹂が翻刻されている。
●保原町歴史文化資料館編﹃信達世直し一揆と金原田八郎展﹄保原町教育委員会、1996年。
●高橋莞治著・保原町歴史文化資料館編﹃金原田八郎伝﹄保原町教育委員会、1996年。
●布川清司﹃近世日本民衆思想史料集﹄明石書店、2000年、ISBN 4-7503-1283-5。
●﹁八郎死後之為心得置条之事︵菅野八郎遺書︶﹂、﹁菅野氏先祖より申伝並ニ八郎遺言﹂、﹁闇の夜汁 全﹂、﹁上 始末書﹂、﹁奉祈念﹂、﹁︵漢方薬全般︶﹂、﹁書簡﹂、﹁判断夢ノ真暗﹂、および参考として﹁深夜睦言﹂が翻刻されている。
●須田努編﹃逸脱する百姓‥菅野八郎からみる一九世紀の社会﹄東京堂出版、2010年、ISBN 4-4902-0714-X。
●﹁菅野実記 上﹂、﹁菅野実記 第一﹂、﹁八老遺書之信言﹂、﹁信達騒動風説記﹂が翻刻されている。また﹁菅野家略系図﹂と﹁菅野八郎関係略年譜﹂が所収されている。