藤原兼長
平安時代末期の権中納言、藤原頼長の次男
藤原兼長 | |
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時代 | 平安時代末期 |
生誕 | 保延4年(1138年)5月 |
死没 | 保元3年正月(1158年2月1日) |
改名 | 菖蒲若(幼名)→忠経(初名)→兼長 |
官位 | 正二位、権中納言、右近衛大将 |
主君 | 近衛天皇→後白河天皇 |
氏族 | 藤原北家御堂流 |
父母 | 父:藤原頼長、母:源師俊の娘 |
兄弟 |
師長、兼長、隆長、範長 養兄弟:多子 |
経歴
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幼名を父・頼長と同じく菖蒲若と称す。天養二年︵1145年︶、父・頼長より﹁忠経﹂の名を与えられるが、祖父・忠実の強硬な反対により翌日兼長と改められた。この理由として忠実は、朝敵として討滅された平忠常と同訓であるとの不吉を説いている[2]。
当時、父・頼長は、その兄忠通から摂関家の家督を将来的に相続すべき立場にあった。その流れの中で頼長の嫡男たる兼長の官途も順調であり、久安4年︵1148年︶には11歳にして五位中将に進んでいる。また伯父である忠通の猶子[3]ともなり、同年忠通の近衛邸で元服を果たしている。
しかし、康治2年︵1143年︶に実子・基実を得ていた忠通は、内心では頼長流への家督移譲に対して消極的であり、やがて忠実・頼長と対立してゆく。したがってこれ以降の兼長の昇進は忠通の関与するところではなく、むしろ忠通に代わって久安6年︵1150年︶に藤氏長者となって実権を握った頼長の威光によるものであった。仁平3年︵1153年︶には正二位権中納言に達し、翌仁平4年︵1154年︶には右近衛大将を兼任。この年、春日祭上卿を勤め、多くの殿上人や源為義らの武士を含む大行列を従え、盛大に京を出立している。
頼長と忠通の対立は、皇室内部の角逐とも相まって極点に達し、遂に保元元年︵1156年︶の保元の乱の勃発を招くに至った。この際兼長は弟達と共に宇治に待機するが、やがて頼長の敗北・戦死という事態を受けて降伏、出雲国へと配流され政治生命を終えた。それから僅か2年の後、配所において21歳で病没している。
人物
編集太ってはいたが容貌美しく、心ばえも穏やかであったという[4]。狛光近の指導により舞踊にも長ずるなど、上流貴族の子弟に相応しい教育を受けていた。
脚注
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(一)^ 一般的には兼長は頼長の長男とされているが、樋口健太郎﹁藤原師長論﹂︵﹃中世摂関家の家と権力﹄︵校倉書房、2011年︶所収、原論文は2005年︶によれば、師長は保延4年2月生まれ、兼長は同5月生まれで、師長の方が3か月早く誕生したとされている。
(二)^ ﹃台記﹄天養二年正月二日条
(三)^ 樋口健太郎は忠通と兼長の縁組は基実の誕生後で、しかも摂関家の継承権を伴う養子縁組であったことから、縁組を強要された忠通の反発を招いた︵兼長は基実の﹁兄﹂となり、摂関家の継承権が先となる︶としている。なお、樋口によれば忠通と兼長の縁組は久安4年︵1148年︶11月に忠通が兼長の春日祭使派遣に対する協力拒否を示した︵﹃台記﹄久安4年11月11日条︶ことで事実上破綻した、としている︵樋口健太郎﹁藤原忠通と基実-院政期摂関家のアンカー-﹂︵初出:元木泰雄 編﹃保元・平治の乱と平氏の栄華﹄︹中世の人物 京・鎌倉の時代編第1巻︺︵清文堂出版、2014年︶/所収:樋口﹃中世王権の形成と摂関家﹄︵吉川弘文館、2018年︶ ISBN 978-4-642-02948-3︶︶。
(四)^ ﹃今鏡﹄第5 188段。