蝦夷錦
江戸時代に松前藩が山丹交易で入手した中国産絹織物
蝦夷錦(えぞにしき)・山丹服(さんたんふく)は、江戸時代に松前藩がアイヌ民族を介した交易で、黒竜江下流から来航する民族から入手した、中国本土産絹や清朝官服のことである。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/57/Santanfuku8422.jpg/220px-Santanfuku8422.jpg)
中国本土と黒竜江流域の交流
編集蝦夷錦
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江戸時代、蝦夷地の樺太や宗谷に山丹人が来航し、松前藩は当時蝦夷と呼ばれたアイヌを仲介して彼らと交易を行った。これが山丹交易である。その交易で様々な中国本土や清朝の品がもたらされ、その代表的な例が雲竜︵うんりゅう︶などを織り出した満州族風の錦の官服・蝦夷錦である。当時の参勤交代の際、松前藩主がその清朝風の錦を着て将軍に謁見したところ、将軍は華美なその錦を大いに気に入った。以降、松前藩は錦を幕府に献上するようになった。
その際、松前藩はこれが清からもたらされたものだということを知っていたが、それを隠して蝦夷錦と呼び、錦の輸入を独占した。しかし、その陰には、苦境に立つアイヌがいたのである。アイヌは蝦夷錦入手のため多額の累積債務を抱え、借財のかたに連れ去られるなど山丹人との間に軋轢があり、蝦夷地が幕府直轄領となった際発覚し問題となった。
詳細は「山丹交易#山丹交易改革」および「泊居郡」を参照
蝦夷錦に触発された商品・作品など
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● ツバキ 蝦夷錦
江戸時代に作出された園芸品種のツバキである。枝ごとに白い花、白や淡桃色の地に赤い縦模様の絞りが入った花、赤い花と咲きわける。葉がよじれるのが特徴である。花の多様さと豪華さを、蝦夷錦の生地に例えた。フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトがトライカラーと名付け、帰国時に持ち帰った。江戸後期の﹃古今要覧稿﹄︵1842年︶に原色図がある[3]。
注釈
編集- ^ 稚内史 第五章 樺太詰松田伝十郎の山丹交易改革
- ^ 池添博彦、北蝦夷地紀行の食文化考 北夷談について 『帯広大谷短期大学紀要』 1995年 32巻 p.33-48, doi:10.20682/oojc.32.0_33
- ^ 桐野秋豊『色分け花図鑑 椿』(初版第4刷)学習研究社、2005年、89頁。ISBN 978-4-054-02529-5。
参考文献
編集- 北海道新聞社編『蝦夷錦の来た道』(北海道新聞社、1991年)ISBN 4893636189