解州
概要
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948年︵乾祐元年︶、後漢により河中府の解・安邑・聞喜の3県を分割して解州が立てられた。州治は解県に置かれた[1]。
北宋のとき、解州は永興軍路に属し、解・安邑・聞喜の3県を管轄した[2]。
金のとき、解州は河東南路に属し、解・安邑・聞喜・夏・平陸・芮城の6県と張店・曹張・東鎮・劉荘の4鎮を管轄した[3]。
元のとき、解州は晋寧路に属し、解・安邑・聞喜・夏・平陸・芮城の6県を管轄した[4]。
明のとき、解州は平陽府に属し、安邑・聞喜・夏・平陸・芮城の5県を管轄した[5]。
1724年︵雍正2年︶、清により解州は直隷州に昇格した。解州直隷州は山西省に属し、安邑・夏・平陸・芮城の4県を管轄した[6]。
1912年、中華民国により解州直隷州は廃止され、解県と改められた。