豊田天功
1805-1864, 幕末の水戸学者
生涯
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庄屋豊田信卿の次男として、久慈郡坂之上村︵現在の茨城県常陸太田市︶に生まれる。幼年時より漢詩を誦すなど、早くからその才を広く知られ、14歳のとき、青藍舎に入門して藤田幽谷の門人となった。翌年、幽谷の子・藤田東湖とともに江戸に出て、亀田鵬斎・太田錦城に儒学を学び、岡田十松に剣術を学んだ。文政3年︵1820年︶に彰考館見習いとなり﹃大日本史﹄編纂事業に携わった。19歳のときに﹃禦虜対﹄を著したが、その名声は江戸彰考館まで広まったとされる。文政10年︵1827年︶、﹁不心得﹂との理由で郷里にて蟄居させられたが、盟友・藤田東湖の計らいで水戸藩主徳川斉昭に認められたという。
天保3年︵1832年︶に大門村︵現在の茨城県常陸太田市︶の黒羽資満の次女万と結婚し、翌天保4年︵1833年︶に﹃中興新書﹄を著して藩主徳川斉昭に上呈し、藩政改革の成否は人材登用にあると訴えた。天保12年︵1841年︶、再び彰考館に入って﹃大日本史﹄編纂事業に従事した。翌年、﹃仏事志﹄を著したが、わずか80日間で書き上げて注目された。ペリー来航後は、常に西洋諸国の脅威と警戒の重要性を説き、斉昭の攘夷論・海防論に学者としての知的裏付けをした。安政3年︵1856年︶、彰考館総裁に就任し、﹃大日本史﹄の志・表の編纂を主宰した。﹁食貨志﹂﹁兵志﹂﹁刑法志﹂を脱稿したが、完成を見ないまま病没した。
長男の小太郎︵豊田香窓︶は、藤田東湖の姪である豊田芙雄と結婚。
年譜
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●1805年 久慈郡坂之上村︵現在の茨城県常陸太田市︶に生まれる。
●1818年 青藍舎に入門して藤田幽谷の門人となる。
●1819年 藤田東湖とともに江戸に出る。
●1820年 彰考館見習いとなる。
●1827年 蟄居させられる。
●1832年 万と結婚とする。
●1833年 ﹃中興新書﹄を著す。
●1841年 再び彰考館に入る。
●1842年 ﹃仏事志﹄を著す。
●1856年 彰考館総裁となる。
●1864年 病没。享年60。
●1902年 従四位を追贈された[1]。
著書
編集- 『禦虜対』
- 『中興新書』
- 『仏事志』
- 『防海新策』
- 『北島志』
脚注
編集- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.16
関連項目
編集参考文献
編集- 茨城新聞社編 『茨城県大百科事典』 茨城新聞社、1981年、782頁。
外部リンク
編集- 豊田天功(輝く茨城の先人たち)