伏見宮貞常親王
室町時代の皇族。二品式部卿。伏見宮4代。貞成親王の次男。妃に治部卿局
(貞常親王から転送)
伏見宮貞常親王 | |
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伏見宮 | |
続柄 | 伏見宮貞成親王第2王子 |
称号 | 後大通院 |
身位 | 親王 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
応永32年12月19日(1426年1月27日) |
死去 |
文明6年7月3日(1474年8月15日) |
埋葬 | 京都市上京区相国寺伏見宮墓地 |
配偶者 | 庭田盈子 |
治部卿局 | |
子女 |
邦高親王 尭胤法親王 ほか |
父親 | 伏見宮貞成親王 |
母親 | 庭田幸子 |
役職 |
二品 式部卿 |
サイン |
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著作に『山賤記』、歌集に『魚山百首』などがある[2]。
略歴
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貞常が3歳の時に兄の彦仁︵後花園天皇︶が践祚し、将来の親王宣下の可能性が出てきたことから父の貞成親王はその将来に気を配り、当時の代表的学者であった中原康富を侍読として招くなど最大限の配慮を示した[3]。後花園は後小松上皇の猶子として即位した経緯から、後小松の生前には実家の待遇改善には消極的であったが、永享5年︵1433年︶に後小松が死去すると積極姿勢を示し、庭田重賢︵後花園と貞常の母幸子の甥︶を通じて、貞常を元服させたうえで親王とし、さらに貞成に上皇の尊号を奉る意向を伝えた︵﹃看聞日記﹄嘉吉3年4月26日条︶。
また、母である幸子も永享6年︵1434年︶に15歳で宮家に出仕させた姪の盈子︵女房名‥小今参→阿茶→新大納言︶を育てて、後に貞常の妃とした[4]。
文安2年︵1445年︶3月16日、関白二条持基の加冠によって元服が行われた。ところが、親王宣下は突然中止となり、貞成の抗議に応じて5月20日に万里小路時房と松木宗豊が勅使として貞成のもとに派遣され、事情聴取を行った。6月7日には﹁荒説﹂﹁云口﹂︵デマ・中傷︶を理由として広橋兼郷と白川雅兼が追放されたのである。その内容は不明であるが、両者は後小松上皇の側近で、貞成に尊号を与えてはならないとする上皇の遺詔に従って尊号宣下に反対していた人々であると考えられており、その前提となる貞常への親王宣下を延期させる結果に至っていることから、貞成・貞常親子と天皇の関係を引き裂くような性質のデマを流したと考えられている。問題が解決したあとの6月27日になってようやく貞常への親王宣下が行われた。文安3年︵1446年︶3月28日には二品に叙せられ式部卿に任じた。同年8月27日には貞成より家領を譲られた︵文安4年には貞成への尊号が実現している︶。
康正2年︵1456年︶8月に後崇光院︵貞成︶が死去すると、10月には貞常は後花園から後崇光の紋所を代々使用することと永世﹁伏見殿御所︵伏見殿︶﹂と称することを勅許された︵﹃伏見宮系譜﹄︶。これまでも世襲宮家は複数存在し伏見宮もその1つであったが、親王宣下の保証はなかった。だが、今回の勅許は歴代当主に対する親王宣下に対する保証を初めて与えたものであり、これをもって世襲親王家の成立とみなすことが可能である。また、父の貞成親王は﹃椿葉記﹄において、天皇が貞常親王を猶子に迎えることを希望しており、具体的な時期は不明であるものの、これは実現されたようである︵﹃建内記﹄抄録文安4年2月20日条︶。
和歌・漢詩・書道など様々な芸能に長けた人物であり、その逝去時には応仁の乱の最中にもかかわらず、多くの人々からその死を惜しまれたと言う。
系譜
編集伏見宮貞常親王の系譜 |
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系図
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93 後伏見天皇 |
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光厳天皇 北1 |
| 光明天皇 北2 |
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崇光天皇 北3 |
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| 後光厳天皇 北4 |
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(1)栄仁親王 |
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| 後円融天皇 北5 |
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(2)治仁王 |
| (3)貞成親王 (後崇光院) |
| 100 後小松天皇 北6 |
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102 後花園天皇 |
| (4)貞常親王 〔伏見宮家〕 |
| 101 称光天皇 |
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103 後土御門天皇 |
| (5)邦高親王 |
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現皇室へ |
| 伏見宮へ |
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妃・王子女
編集墓所
編集脚注
編集参考文献
編集- 小川剛生「伏見宮家の成立 -貞成親王と貞常親王-」(所収:松岡心平 編『看聞日記と中世文化』(森話社、2009年) ISBN 978-4-916087-94-2)