部屋住み
次男以下の「部屋住み」
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武士は元来が軍人・戦闘階級であるがゆえに、武家社会の構造は戦死と後継を前提としているため、特に太平の世が長く続くと人口過剰に悩まされるという矛盾を孕んだ。旗本や御家人の家を継いだ者でさえ役職にあぶれた小普請が無聊を託つありさまで、まして次男以下では分家による領地分割が限界に達すると、仕官か他家へ養子の口でも無ければ自らの家・領地を持てない浪人や部屋住みとして生きることになった。農民など他の階層でも同様のことは起こりうるが、特に支配階級である武士が身分を捨てる決断もできぬまま展望の薄い小普請や部屋住みの境遇に甘んじる場合が多かった。
次男以下の就職は困難であるため、分家・独立するほどの財力や地位を持っていない大多数の家では、実家に居候という形で次男以下を住まわした。長男が亡くなった場合に血統を絶やさないための万が一の予備としての役割であったため、妻子を持つことは基本的に禁じられ、不遇な生活を強いられたといわれる︵飼殺し、冷や飯食い︶。特に役職や仕事が貰えないため、長男よりも学問や武芸・茶道などの芸道において達者になり、師範代として職を得た者もいたという。兄が死去することで次男以下が家督を継いだ例は数知れないが、中でも井伊直弼の15年間にも及ぶ部屋住みはよく知られている。
武士の子として生まれた小説家の岡本綺堂は、自身の小説中において﹁部屋住み﹂を以下のように述べている。
旗本に限らず、御家人に限らず、江戸の侍の次三男などというものは概して無役の閑人であった。彼らの多くは兄の屋敷に厄介になって、大小を横たえた一人前の男がなんの仕事もなしに日を暮らしているという、一面から見ればすこぶる呑気らしい、また一面から見れば、頗る悲惨な境遇に置かれていた
—『半七捕物帳』
部屋住勤仕
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江戸期は慣習としては役職も世襲であるので、当主が死去または隠居しない限り、家督相続を予定されている者であっても、無役であり勤仕することはなく︵部屋住み惣領︶、出仕させるには、当主が健在であれば隠居させる他なく、50歳を超えて家督を継ぐ例も見られた。家督の承継がなければ、職について経験を積むことが難しいところ、さらに、もし、惣領当人が優秀である場合などで当主が現職で活躍しているならば、あえて、隠居させるのは人材の無駄ともなるとのジレンマがあった。このジレンマを解消すべく、享保の改革において、吉宗は、当主が役職に就いている旗本家の惣領の中から、日頃の行状・人柄、武芸出精、学問出精の者を大番組など番方に加え︵番入︶出仕させるという﹁惣領番入﹂制度を創設した[3]。番入後、勤務状況によっては、役方に任用されるなど上の役職に抜擢されることもあった。惣領番入で出仕することで、惣領当人には家禄と役に応じた役料の差額が切米として支給された︵役付き時に限るため足高の制が適用される︶。吉宗の時代には、学問出精を理由として番入する惣領は皆無であり、﹁武芸吟味﹂などによる武芸出精の者が見出され、学問による人材登用は、この後の寛政の改革時に創設された﹁学問吟味﹂などによった。幕末に至っては、塚原昌義のように部屋住みのまま若年寄まで昇進する例も見られた[注1]。