鈴木重成

江戸時代前期の幕臣・天草代官。鈴木重次の三男。三河鈴木氏15代

  

 

凡例

鈴木重成
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正16年(1588年
死没 承応2年10月15日1653年12月4日
別名 三郎九郎(通称
墓所 熊本県天草市鈴木神社
幕府 江戸幕府 天草代官
主君 徳川家康秀忠
氏族 三河鈴木氏支流・則定鈴木家
父母 鈴木重次
兄弟 正三重成
重頼重祐重辰
テンプレートを表示

経歴

編集

200261620200700

141637使181641

2

2165366

自刃説について

編集

21653

[1]

自刃説の真偽

編集
  • 郷土史家の鶴田文史は、2006年に著した『天草 鈴木代官の歴史検証 切腹と石半減その真実』の中で、多くの文献や史料を基に、自刃説は根拠がなく、1927年(昭和3年)に突然出現した説であること、年貢半減や減税の史料もないこと(次代の重辰の時期に、42000石が21000石に半減した)、重成の死は自刃でなく病死であることを主張した[2]。同書によると、元田重雄が1928年、『みくに』(郷土新聞)の「天草郷土史談」に、「重成は死をもって石高半減を申請し、その旨を遺書して自刃せり」と書いたが、それ以前には全く史料はなく、『熊本県大百科事典』(花岡興輝)や『鈴木代官史料集』(寺沢光世、2003年)にも自刃を裏づける史料はない。後世の作り話であり、郷土史家で自刃説を支持するものはいない。

逆に病死を証明する史料に当時の金石文が残っている。天草市河浦町の一町田八幡宮には鈴木重成の病気治癒を祈願する灯籠が亡くなる2ヶ月前の1653(承応2)年8月に寄進されている。(碑文の抜粋「鈴木重成公病即消滅福寿増長武運長久 子孫繁昌祈所」)さらに苓北町富岡の瑞林寺には亡くなった翌年の1654(承応3)年に建立された「鈴木重成代官の供養碑」には「病牀二就キ日久シ医王手ヲ拱キ術ヲ失フ、天ナル哉命ナル哉、遂ニ逝去シ了ヌ」(碑文を抜粋し、読み下し)とあり、病死だったことが分かる。[3]

系譜

編集

鈴木神社

編集
  • 祭神 - 鈴木三公(正三、重成、重辰)
  • 住所 - 熊本県天草市本町本681

鈴木重成を描いた作品

編集

文献

編集
  1. ^ 英雄たちの選択『激突!島原の乱 天草四郎vs.松平信綱』(NHKBSプレミアム、2014年9月11日放送)
  2. ^ 鶴田文史『天草 鈴木代官の歴史検証 切腹と石半減その真実』天草民報社、2006年
  3. ^ 鶴田文史『天草の史跡文化遺産』天草文化出版社、1971年。112〜113、116ページ。堀田善久『天草の歴史』天草市教育委員会、2009年。