長尾実景
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長尾実景 (鎌倉長尾家)
編集長尾実景 | |
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時代 | 室町時代前期 - 中期 |
生誕 | 応永19年(1412年) |
死没 | 享徳3年12月27日(1455年1月15日) |
別名 | 通称:新五郎 |
官位 | 但馬守 |
主君 | 上杉憲実→憲忠 |
氏族 | 長尾氏 |
父母 | 父:長尾満景[2]、養父:長尾房景 |
兄弟 |
実景、景永 養兄弟:景仲 |
妻 | 狩野叡昌娘・理哲尼[3] |
子 | 景住(憲景?)、景人、房清 |
略歴
編集長尾実景 (越後長尾家)
編集長尾実景 | |
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時代 | 室町時代中期 |
生誕 | 不明 |
死没 | 享徳2年(1453年) |
官位 | 淡路守、因幡守 |
主君 | 山内上杉家→足利義教→上杉房定 |
氏族 | 越後長尾氏 |
父母 | 父:長尾邦景 |
兄弟 | 実景、益景ら |
子 | 大石憲儀室 |
略歴
編集
越後国守護代・長尾邦景の子として誕生。父・邦景は上杉房朝に仕えて重んじられ、関東管領・上杉憲実の信任も厚かったことから権勢を振るった。
また、実景も永享12年︵1440年︶の結城合戦の際、永享の乱で自刃した鎌倉公方・足利持氏の遺児である春王丸・安王丸を捕縛するという功績を上げており、関東管領の名代として上洛して室町幕府6代将軍・足利義教に仕えていた時期もある。
ところが、上杉房朝の後継・房定が足利持氏の末子・永寿王丸を新しい鎌倉公方にしようとしたところ、邦景はこれに反対したために房定に疎まれ、宝徳2年11月12日︵1450年12月16日︶に切腹に追い込まれた。実景は信濃国で挙兵して房定に対し反乱を起こしたものの、房定側の長尾頼景・飯沼頼泰の軍に敗れて越後根知谷の戦いで敗死した。