韓世忠
韓 世忠︵かん せいちゅう、元祐3年︵1088年︶- 紹興21年8月4日︵1151年9月15日︶︶は、中国宋の軍人。字は良臣。延州綏徳城の出身。武勇に優れた抗金の名将で、一人で一万人に匹敵するということから万人敵と呼称される。なお、彼の妻である梁紅玉もまた夫とともに金と戦った。夫婦は仲は非常に睦まじかったという。
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経歴
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延州綏徳城の貧家に生まれる。18歳のとき募集に応じて兵と成り、軍人としての生涯を送ることになる。崇寧4年︵1105年︶、西夏が境を犯すとこれに出撃。大功をたてるが、童貫の評価は芳しいものではなかった。
宣和2年︵1120年︶、方臘の乱が起きる。韓世忠は王淵指揮下の将校として鎮圧に従事する。反乱軍を破り、ついには方臘を捕虜にすることに成功した。このとき、韓世忠の活躍がめざましく、王淵から﹁万人敵﹂と賞賛される。しかし、方臘を捕らえた功績は辛興宗に奪われてしまう。また﹃水滸伝﹄においてもこの功績は魯智深のものにされてしまっている。
宣和3年︵1121年︶にも金を大敗させ、盗賊を捕らえている。また、金の侵入により王帥数万が敗走するなか、一人で敵の包囲を破り、なんとか欽宗を逃亡させることに成功している。
靖康の変の後、高宗を済州まで護衛し、以降は抗金闘争に明け暮れることになる。﹁黄天蕩の戦い﹂では妻の梁紅玉とともに8千の兵で金の10万という数の差を巧みに水撰で覆し、金兵2万5千を倒すという殊勲を挙げる。また、紹興4年︵1134年︶には高宗から﹁中興の武功第一﹂と称された。
紹興11年︵1141年︶、秦檜が金との和平を進める中、岳飛は無実の罪で殺され、韓世忠も兵権を奪われる。兵権を奪われたのちは隠退し、自ら清涼居士と号し悠々自適の人生を送った。隠退後は、客が来ればもてなすが、二度と兵事を語らなかったという。
逸話
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●妻の梁紅玉はもともと妓女であったが、客として現れた当時下級軍人にすぎなかった韓世忠を気に入って、押しかけ女房のように嫁いだと言われる。夫婦仲は非常に良好であった。
●韓世忠よりだいぶ年下でありながら出世のスピードが早かったためか、岳飛との関係は好ましいものでなかったという。もっとも、いつしか韓世忠と岳飛の関係はかなり改善されたようである。
●紹興11年︵1141年︶に岳飛が無実の罪で投獄されると、韓世忠は秦檜に対し﹁岳飛に対し謀反の証拠があるのか﹂と意見している。これに対し秦檜が﹁莫須有︵あったかもしれない︶﹂と答えると、﹁莫須有の三文字で天下を納得させることができるものか﹂と怒鳴りつけたという︵この部分の出典は﹃宋史﹄365巻、岳飛伝︶。
脚注
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伝記資料
編集- 『宋史』巻三六四「韓世忠伝」