顕性院
生涯
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慶長9年︵1604年︶、真田信繁と豊臣秀次の娘・隆清院との間に、紀伊国の九度山︵現在の和歌山県九度山町︶に生まれた[3]。ただし異説では、生年不詳で信濃の生まれともいう[4]。
大坂の陣で父・信繁が敗死した後、寛永4年︵1627年︶頃、出羽国檜山3千石を治めていた久保田藩佐竹家家臣で藩主佐竹義宣の実弟・多賀谷宣家︵のちの岩城宣隆︶の側室となり、寛永5年︵1628年︶1月17日、宣家の嫡男・庄次郎︵岩城重隆︶を檜山で産んだ。同年8月、宣家は甥の岩城吉隆︵佐竹義隆︶が兄・佐竹義宣の養嗣子となったため、その跡を継ぎ亀田藩主となり、名を岩城宣隆と改めた︵形式上、嫡男の庄次郎が藩主となり、宣隆は番代︵後見︶であったともいう︶。お田はこの際、側室から正室になって、檜山から久保田城下の亀田藩邸に入った[注釈2]。お田は、重隆のほか、隆家、女子︵寂寥院︶を産んだ。重隆を自ら養育したと伝えられ、亀田では良妻賢母の名声があった。
寛永6年︵1629年︶、真田家代々と父・信繁、曾祖母・日秀尼の菩提を弔うため、久保田城下に日蓮宗の妙慶寺を建立。のちに亀田城下に移して寺領80石を寄進した。妙慶寺には、信繁の供養塔が残されている。また、同母弟の幸信を呼び寄せ、岩城家に仕官させ、また自身の猶子とした。
寛永10年︵1633年︶、6歳となった庄次郎が江戸に下るのに同行し、自ら読み書き、武芸、礼儀作法を厳しく教えたという。
寛永12年︵1635年︶6月11日、江戸柳原の亀田藩邸で没した。享年32。法名は顕性院殿妙光日信大姉。墓は江戸︵東京都台東区︶の善慶寺と、亀田︵秋田県由利本荘市︶の妙慶寺。
大坂の陣後の動向
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妙慶寺などに残る伝承によると、顕性院が大坂の陣後、宣隆︵宣家︶の室となる過程は、以下のようなものである。
慶長19年︵1614年︶、父・信繁の大坂城入城に伴って、母・隆清院とともに大坂城下に入ったが、大坂夏の陣の2か月ほど前に、妊娠中であった隆清院と12歳のお田は京に逃れた。母娘はまず、嵯峨野にいた曾祖母・瑞龍院日秀尼のもとに身を寄せた。しかし、大坂落城の後、残党狩りが厳しくなったことから、母は姉の嫁ぎ先である梅小路家へ、お田は諸所を転々とした。やがてお田は捕えられて江戸に送られたが、伯父・真田信之の嘆願により処分は軽く、江戸城大奥で奉公をすることで落着した。お田は3年間、大奥で奥女中として勤めた後、京に帰ることを許された。母の隆清院は梅小路家で男子・左馬之助を産んだのち、米屋次郎兵衛という町屋に移り、左馬之助と暮らしていた。
寛永3年︵1626年︶6月、将軍徳川家光、大御所秀忠が後水尾天皇の二条城行幸に伴って上洛したが、これに供奉して京の二条城に入った佐竹義宣の給仕女となった。ある早朝、お田が裏庭で他の下女たちに薙刀の訓練をしていたことから、これに感じ入った義宣に出自を問われ、真田信繁の遺児と判明したため、義宣の仲介により実弟である宣家の側室となった。
脚注
編集注釈
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(一)^ 詳しくは、真田信繁#系譜を参照。
(二)^ 宣隆︵宣家︶の初めの正室・珪台院︵多賀谷重経の娘︶は、この際に離縁となったと思われるが、多賀谷氏が改易されたこともあって実家方に帰されず、宣隆らとともに亀田に移り、顕性院より長く生きて慶安2年︵1649年︶に亀田で没している。
出典
編集参考文献
編集- 吉田昭治「秀次娘・孫 隆清院・お田の方」(「太閤秀吉と豊臣一族」『別冊歴史読本』第33巻24号、2008年)p125-p129
- 「顕性院」『日本女性人名辞典[普及版]』、(日本図書センター、1998年) ISBN 4-8205-7881-2
- 丸島和洋『真田一族と家臣団のすべて』(KADOKAWA、2016年) p245-p247、 ISBN 978-4-04-601099-5
- 小林計一郎 編『真田幸村のすべて』新人物往来社、1989年、96頁。ISBN 440401614X。