駱秀
駱 秀(らく しゅう)は、中国三国時代の呉の武将。本貫は揚州会稽郡烏傷県[2]。
駱秀 | |
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呉 司塩校尉 | |
出生 |
生年不詳 揚州会稽郡烏傷県 |
死去 |
永安7年(264年)7月 揚州呉郡海塩県[1] |
拼音 | luò xiù |
主君 | 孫権→孫亮→孫休 |
事績
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父の駱統は呉の濡須督などを務めたが[2]、その子である駱秀は一族の中で非難を受け、評価されることがなかった。これに対し、人物眼のある謝淵は嘆息して言った。
﹁公緒殿︵駱統︶の早逝は同盟国︵蜀漢︶までもが哀しんだことだというのに、その子息は志行に優れ、道理を弁えた人物にもかかわらず、愚昧な者たちから謗りを受けているとのこと。士大夫の方々が裁断を下してくれることが私の望みであり、なお疑いを持たれているのは望まざるところである﹂
駱秀は後に、正しき人物であることが明らかになり、その行いに瑕疵もなく、ついには名の通った人物となったが、そこには謝淵の力添えがあった[3]。
永安7年︵264年︶7月、司塩校尉の官にあり、海塩県に駐屯していたが、海賊による襲撃を受けて殺害された[4]。