高見山酉之助
日本の元大相撲力士
来歴
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高砂部屋に入門し1895年︵明治28年︶6月場所から番付に記載される。四股名は加増山︵かぞうさん︶であった。
1907年︵明治40年︶1月場所新入幕、この時33歳であった。1910年︵明治43年︶1月場所関脇。巨体を生かして左四つに組み止め、ジワジワ寄る典型的な四つ相撲の取り口[1]だが﹁鈍州﹂と呼ばれるほど、勝ちみが遅いため速攻や技能派力士を苦手としていた。特に玉椿が大の苦手で割が組まれて﹁高見山には玉ァ・・・﹂の触れ太鼓を聞くや布団をかぶってガタガタ震え出て来なかったという。
國技館︵当場所のみ大相撲常設館と書かれていた︶完成の1909年︵明治42年︶6月場所には新大関太刀山に勝って7勝3分、この場所から始まった最優秀成績力士︵優勝額︶掲額の第1号の力士となった[1][注釈1]。なお、平幕優勝力士としても第1号である。また、この場所から導入された東西対抗の優勝制度のなかで、彼が属した側が優勝し、関脇以下の最優秀成績でもあったために、優勝旗手の栄誉も得た。最終場所は1913年︵大正2年︶5月場所。引退後は協会に残らず郷里に帰り飲食店を営んだ。