魏晋南北朝時代
中国史の時代区分
概略
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︵本項では時代区分の用語についてのみ説明し、詳細はそれぞれ三国時代・五胡十六国時代・南北朝時代を参照。︶
この時代を表す言葉には複数ある。後漢の滅亡の220年から西晋の統一280年までを三国時代と呼び、この時代には魏・呉・蜀の三国が争覇した事で有名である。
280年から始まった西晋の統一時代はわずか31年間と言う短い時間で終わり、311年の永嘉の乱で実質的に西晋は滅びた︵完全に滅びたのは316年︶。司馬睿ら生き残った晋の皇族・貴族は南へ逃れて建康にて亡命政権を作った。これが東晋である。
一方、華北では西晋を滅ぼした前趙を初めとした匈奴ら南下した遊牧民が中心となった国が興亡した。西晋を滅ぼした前趙︵当初の国号は漢︶が興起した304年から、439年の北魏による華北の再統一までを五胡十六国時代と呼んでいる。しかしこの胡の字には異民族に対する差別的な意味合いがあるため使用が控えられ、それに代わって東晋十六国の名前が使われ始めている。ただ五胡十六国時代の範囲には東晋滅亡後の20年ほども含んでいるため、この用語も完全に適切とは言い難い。
そして439年から589年の隋による南北統一までを南北朝時代と呼んでいる。
またこれとは別にこの時代に江南︵中国語版、英語版︶地域︵長江流域︶に発展した文化・経済を重要視する意味で三国時代の呉と東晋から宋・斉・梁・陳までの六の王朝を合わせて六朝時代とも呼んでいる。
このように呼び名が複数でかつ互いに重なっている年代もあり、非常に複雑である。また後漢の滅亡は220年だが、それより前から後漢の皇帝︵霊帝-献帝︶の実権は無くなっており、184年の黄巾の乱の時点からを中国分裂時代の始まりと見るべきとの考えと、西晋の統一期間はごく短いもので、ここを含めて一時代と見るべきとの意見を合わせた観点から、この魏晋南北朝時代の用語が使われる。
多大なる中国語の変化
編集日本の歴史空白期
編集西暦266年から413年にかけて中国の歴史文献における倭国の記述がなく詳細を把握できないため、この間は「空白の4世紀」とも呼ばれる。これはこの時代が丁度ほぼ西晋・東晋の時代に当たり、270年から277年にかけての涼州で鮮卑系の禿髪樹機能らによる非漢民族の大規模な反乱、呉への侵攻と滅亡、八王の乱、永嘉の乱そして五胡十六国時代と度重なる大規模な戦乱で当時の日本の諸国との交流が断絶してしまったためによる。
参考文献
編集- 森三樹三郎『六朝士大夫の精神』同朋舎、1986年。ISBN 4810405176
関連項目
編集外部リンク
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