鹿津部真顔
1753-1829, 江戸時代後期の狂歌師、戯作者
略歴
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1781年︵天明元年︶洒落本﹃袖かがみ﹄に初めて名前が見え、黄表紙や洒落本などを天明年間に刊行する[1]。1782年︵天明2年︶に狂歌界へ入り、師は元木網で、1784年︵天明4年︶頃に大田南畝門下となり、算木有政や銭屋金埒らと﹁スキヤ連﹂を結成した[1]。やがて、宿屋飯盛・頭光・金埒らと狂歌四天王と称された[1]。1794年︵寛政6年︶南畝から﹁四方姓﹂を譲られ、飯盛と化成期の狂歌界を二分した[1]。真顔は天明狂歌が奔放無軌道に陥ったことを是正しようと、鎌倉室町期の狂歌を本来の姿であるとする﹁俳諧歌﹂を提唱したが、一般からは親しまれず、結果として狂歌の衰退をもたらした[1]。晩年は家庭的にも恵まれず、貧窮のうちに没した[1]。