黄櫨染御袍
日本の天皇が重要な儀式の際に着用する束帯
黄櫨染御袍︵こうろぜんのごほう︶とは、日本の平安時代以降の天皇が重要な儀式の際に着用する束帯装束の、﹁黄櫨染﹂色の袍のことである。黄櫨染︵こうろぜん/はじぞめ︶は櫨の樹皮と蘇芳から染め出される色で、﹁赤みがかった黄色﹂[1]や、﹁黄がかった茶色﹂[2]等と言われるが、時代や着用者の年齢等によってかなり幅のある色であったと考えられている[3]。令和元年︵2019年︶の即位礼正殿の儀における海外報道の多くでは、その色調はbrown-goldと評された[4]。
黄櫨染 (webcolor) | ||
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16進表記 | #d99502 |
沿革
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黄櫨染の御袍が天皇の服として定められたのは、弘仁11年︵820年︶のことである。それ以前の天皇の服については史料が乏しく不明な点が多いが、一般的には白色等が用いられたと考えられている。平安時代初期の嵯峨天皇は、弘仁11年2月1日に詔により、朔日や聴政、外国からの使節を受ける際や、奉幣、節会に際して天皇の着用する服を﹁黄櫨染衣﹂と定めた。なお、同時に、神事や冬季の諸陵奉幣には帛衣、元日の朝賀には袞冕十二章を着ることとした︵﹃日本紀略﹄︶。
天皇の衣を黄櫨染とした背景には、唐の文化の受容があったと考えられている︵弘仁・貞観文化︶。中国では、隋の初代皇帝である文帝が黄の袍を着用の上、黄色を服色の最上位としたといい、唐代になって、皇帝以外の黄色の着用を禁じたため、黄色︵赭黄︶の袞龍袍が皇帝専用のものとなった︵﹃新唐書﹄ほか︶[5]。嵯峨天皇の定めた黄櫨染は、赭黄同様、真昼の太陽の色を象徴したものという説もある[2]。
黄櫨染の御袍が天皇の服となったことにより、黄櫨染は天皇以外には着用できない禁色となったと考えられている。なお、上述の詔に先立つ弘仁6年︵815年︶には、勅により女性の褐および黄櫨染の着用を禁止している︵﹃日本後紀﹄︶。
その後、現代まで継続して天皇の服として用いられているが、朝廷の儀式の変容等に伴い、時代によって着用場面の多寡はさまざまであった。特に、江戸時代初期には黄櫨染御袍が断絶していたとする説もあるが[6]、国立歴史民俗博物館所蔵﹃慶長十六年御譲位御服調進帳﹄によれば、後水尾天皇即位に際して﹁きりたけ﹂の袍が調進されている。広隆寺所蔵の後水尾天皇の袍は、牡丹唐草に尾長鳥の文様の麹塵の袍であるから[7]、このとき調進された﹁きりたけ﹂の袍は黄櫨染の袍とみられる。東山御文庫所蔵﹃黄櫨染御袍等御裂帖﹄によれば、後西天皇の黄櫨染御袍使用が知られるから、結局黄櫨染御袍の使用の裏付けがないのは後光明天皇だけのようである。
明治天皇即位の時に袞衣が廃止されて以降は、﹁即位礼紫宸殿の儀﹂を含む即位式にも使用され、宮中三殿で行われる恒例の皇室祭祀のほとんどに使用されることとなった︵神嘉殿でおこなう新嘗祭のみは、天皇は御祭服を使用︶。現代においてもこの規定が引き継がれ、即位の礼の中での最重要の儀式﹁即位礼正殿の儀﹂や立太子礼、宮中祭祀の四方拝その他で着用されている。
製法
編集染色
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10世紀の﹃延喜式﹄によれば、綾1疋を黄櫨染に染めるには、櫨14斤、蘇芳11斤、酢2升、灰3斛、薪8荷を用いるとあり、山櫨の樹皮と蘇芳の芯材を使って染められたことが分かる。櫨染めはやや褐色がかった黄色に染まり、蘇芳はやや黒っぽい赤色に染まるため、仕上がりは鮮烈な日光の色と云うよりも深くて落ち着いた印象の黄褐色系から赤褐色系になる。しかし、黄櫨染は非常に難易度の高い染色で、熟練工であっても毎回同じ色を染めることはできず、安定して色を出すことは不可能とも言われている。また、着用者の年齢等によっても仕上りを変えたと言われる。広隆寺には、後奈良天皇以降、歴代の天皇が聖徳太子立像に着せるために納めた黄櫨染等の御袍が伝わるが、その色はさまざまである[8]。また、吉岡幸雄の復元によると、黄櫨染や麹塵︵天皇の日常の御袍の色︶は、日光の下にあるときと灯火の下にあるときとで色調が変わる効果があるという[9]。
なお、近世の黄櫨染御袍の材質は固地綾であった。
文様
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文様については、﹃西宮記﹄に引く﹃醍醐天皇御記﹄の延喜7年︵907年︶2月23日条に、天皇の朝服と臣下の服が同じ文様では不都合であるから、規制すべきであるという議論があったことが伝わるが、文様の具体的な記述はない。長保2年︵1000︶には、一条天皇の御服を織部正橘忠範が新調するにあたり、巨勢広高に﹁五霊鳳桐﹂の図様を書かせ、これを下絵として織機の織型としたことが知られる[10]。五霊とは5種類の瑞獣のことである。
13世紀に記された﹃餝抄﹄の記述から、この頃には﹁桐﹂﹁竹﹂﹁鳳凰﹂﹁麒麟﹂の4種の要素から成る文様となっていたと推測される。ただし、ほぼ同時代に順徳天皇の記した﹃禁秘抄﹄には﹁竹鳳﹂とある[11]。また、14世紀前半以前に成立した﹁天子摂関御影﹂の高倉天皇像は、桐竹鳳凰文の黄櫨染御袍を着用しており、筥形文の黄櫨染御袍を描いた最古の史料とされる。中世の絵画では、桐竹唐草に鳳凰を散らした文様の袍を描いた例もあり︵東大寺藏﹁四聖御影﹂など︶、これを古様とする説もあるが、文献的な裏付けはない。現存最古の後奈良天皇奉納の御袍︵広隆寺所蔵︶は、桐竹鳳凰麒麟の長方形の筥形文となっている[12]。その後の遺品も同様であり、現在の天皇着用の黄櫨染御袍も桐竹鳳凰麒麟の筥形文である。
裏地
編集ギャラリー
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2019年(令和元年)10月22日、即位礼正殿の儀
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徳仁親王(現:天皇)の立太子宣明の儀
左側の壇上に立つ天皇(現:上皇)が黄櫨染御袍を着用している。 -
唐太宗の肖像。黄櫨染の盤領袍を着用している。
広隆寺上宮王院聖徳太子像
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京都市右京区の広隆寺の上宮王院太子堂︵享保15年︵1730年︶建立︶に安置される聖徳太子像には、歴代天皇より、天皇着用の装束と同様のものが寄贈され、着せられている[13][14][7]。聖徳太子像は保安元年︵1120年︶に完成したもので、当初は美豆良に結った童形であったと推測されるが、後代には髻を結って冠をかぶる形に変えられ、太子33歳の時の姿とされるようになった[14]。下着姿の像のため、当初より束帯を着せることが想定されていたと考えられ[7]、遅くとも室町時代には天皇より贈られた装束が着せられていた[14]。
第105代後奈良天皇の青色御袍︵残欠︶以降の束帯や冠が現存しており、後西天皇・東山天皇・中御門天皇・後桜町天皇・光格天皇・仁孝天皇および明治天皇以降の歴代天皇より寄進された黄櫨染袍が伝わる[13][7]。
現在は上皇明仁の即位の礼︵1990年︵平成2年︶︶に際して調進された御袍と同じ染織技法を用い、天皇着用のものの約8割の寸法で製作された黄櫨染の袍が、1994年に調進され、着せられている[7]。
脚注
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(一)^ 日本国語大辞典 2000.
(二)^ abc高田 1986.
(三)^ 鈴木 1985.
(四)^ ﹃Naruhito: Japan's emperor proclaims enthronement in ancient ceremony﹄BBC 2019年10月22日
(五)^ ﹃太平御覧﹄の引く漢の崔寔﹃四民月令﹄逸文によると﹁柘染﹂について﹁黄赤で、人君の着る色﹂とし、﹁黄は中央の色で、赤は人君が向く方向である南方の色﹂とする︵五行説︶。
(六)^ 出雲路 1942等
(七)^ abcde高田 1997.
(八)^ 鈴木 1985等。ただし、後奈良天皇の袍は青色︵麹塵︶とする見解もある︵高田 1997, pp. 86–87等︶
(九)^ 吉岡 2000.
(十)^ 鈴木 1984 この一連の史実は、﹃権記﹄によって知られる。
(11)^ 鈴木 1984.
(12)^ ただし、高田倭男等は、後奈良天皇の袍は裏地が黄色であること等から、青色としている(高田 1997, pp. 86–87)。これに対し鈴木敬三は、一条房通の﹃装束唯心抄﹄に、黄櫨染を﹁海松茶のはげたる様﹂な色としていることや、中世以来、青色袍の生地は染色ではなく織色であったこと等から、後奈良天皇の袍が黄櫨染であるか麹塵であるかは決しがたいとしている(鈴木 1983, p. 255)。また、広隆寺にある後水尾天皇の袍が尾長鳥唐草文様の青色︵織色︶の袍であるように、当時、桐竹文様の青色袍が用いられた確証はない。近世の桐竹文の麹塵の御袍は光格天皇が石清水臨時祭再興時に復興させている。
(13)^ ab出雲路 1929.
(14)^ abc伊東 1997.
参考文献
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●出雲路通次郎﹁聖徳太子尊像に御贈進の御衣に就いて﹂﹃大礼と朝儀﹄櫻橘書院、1942年。︵初出1929年︶
●伊東史朗 著﹁広隆寺聖徳太子像の概要と諸問題﹂、伊東史朗 編﹃広隆寺上宮王院聖徳太子像 : 調査報告﹄京都大学学術出版会、1997年。
●鈴木敬三 著﹁解説﹂、国学院大学神道資料展示室; 鈴木敬三 編﹃装束織文集成﹄国学院大学、1983年。
●鈴木敬三﹁桐竹鳳凰麒麟﹂﹃国史大辞典﹄吉川弘文館、1984年。
●鈴木敬三﹁黄櫨染﹂﹃国史大辞典﹄吉川弘文館、1985年。
●高田倭男﹁黄櫨染﹂﹃日本大百科全書﹄小学館、1986年。
●高田倭男 著﹁御装束﹂、伊東史朗 編﹃広隆寺上宮王院聖徳太子像 : 調査報告﹄京都大学学術出版会、1997年。
●吉岡幸雄﹃日本の色辞典﹄紫紅社、2000年。ISBN 4-87940-549-3。
●長崎盛輝﹃かさねの色目 平安の配彩美﹄青幻社、2001年。ISBN 4-916094-54-9。︵初版1996年︶
●福田邦夫﹃すぐわかる 日本の伝統色﹄東京美術、2005年。ISBN 4-8087-0784-5。
●﹁こうろぜん﹂﹃日本国語大辞典﹄︵第2︶小学館、2000-2002年。