★釧路石炭列車終了のお知らせ
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こんなニュースがありました。鉄道ファンや炭鉱ファンには残念なニュースでしょうね。またこのニュースで﹁まだ日本に炭鉱があったのか﹂﹁石炭を運んでた列車があったのか﹂などと驚かれた人もいるかも知れません。
ここで何度も書いてるように、釧路という街は私の故郷でもあります。そしてこの石炭列車、そして炭鉱の工場は実家の近所にあり、帰郷するたび身近に見ることが出来ました。私も﹁鉄﹂ではありますが、幼少時からあまりに見慣れているため、この鉄道に関しては、さして特別感も感慨もなく﹁ああ。あるよねえ﹂くらいの感覚でした。春採湖沿いを走る景色は見たいと思いますが、旅客営業はしていないので叶いませんし、有志の同好会などで﹁石炭列車に乗る会﹂みたいな催しもやってるようですが、以前ここで*1書いたように﹁鉄ヲタさん﹂と縁を切った私に、そんな機会が訪れることもありませんでした。
★﹁煤煙とロマン﹂
さて。そんな釧路を舞台にした久我美子さんの映画﹁挽歌﹂について、ここで語っています。 karamandarine.hatenadiary.jp 当時の北海道は、日本全国であまり知られていなく﹁異国ロマン﹂的に語られることが多かった、というお話でした。この小説や映画をきっかけに﹁霧とロマンの街﹂などと言われることも多くなりました。今でも釧路のウリは﹁霧とロマン﹂そして﹁世界三大夕日﹂だと思われます。
しかし幼少時代を過ごした私にとってはどうでしょうか。個人的な家庭環境や学校生活も相まって﹁暗く辛く薄ら寒い街﹂に過ぎませんでした。
そんな私の悪環境に、更に追い打ちをかけたのが街の環境です。私は子供の頃からアレルギー、そして喘息持ちでした。発作になると本当に苦しく、黙ってるだけでも﹁息も絶え絶え﹂になり、当然ただ歩くことさえ苦しく、日常の行動が制限されていました。
最初に書いたように釧路には炭鉱があります。炭鉱があるということは、町の人々は﹁地元の石炭﹂を積極的に使うということでもあります。厳寒の地、しかも真夏でさえ20度を下回り、今現在でも﹁8月にストーブをつけた﹂という話は珍しいことではありません。 こうして年がら年中、石炭を焚いて暖房にしているということは、各家の煙突から年中﹁煤煙﹂が出ていることになります。ただでさえ﹁年中の霧﹂で大気の環境が悪いなか、石炭を焚いて各家からモクモク煙を出してたんじゃ、そら﹁空気が悪い﹂どころの話じゃないわけです。
上記﹁挽歌の記事﹂写真でも、坂の上の病院煙突から、モクモク黒煙が上がってるのが見えますね。
他にも挽歌に出てくるシーンで確認できます。![f:id:maicou:20190617061112p:plain f:id:maicou:20190617061112p:plain](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/maicou/20190617/20190617061112.png)
先程も言いましたとおり、夏でさえ﹁暑い!﹂という日が殆どありません。母からの電話でも、8月だというのに﹁今日は寒くてストーブを付けたよ﹂と今でも報告があります。そういう街です。
そしてこれは幣舞橋の霧です。
日中、ほとんど、こういった空気に街が覆われます。
これらの環境が﹁喘息だった私﹂にどれだけ悪影響だったか、計り知れないということです。健康上の問題だけではありません。喘息という症状は﹁ただ黙っていると﹂顔色や態度は﹁あまり病気ぽく見えない﹂ため、質の悪い知人や教師、先輩などから﹁詐病﹂をよく疑われ、嘘つき人物扱いされたり虐められたりもします。
私の喘息は、通年性の重いものではなく﹁秋冬﹂などに起こる季節性のものでしたので、健康な季節もあり、そこがまた誤解を生むことになったのだと思います。
学校でも、教師に﹁発作時の怠惰な動き﹂を注意されたことが何度もありますし、嫌味な体育教師に﹁学校に来れるくらいなら授業も出られるだろう﹂などと無理くり体育の授業に参加させられたこともあります。マラソン大会でも常に後尾集団だったことから﹁不まじめなやつ﹂レッテルで常にバカにされました。これらの出来事が、子供時代の私に﹁かなり暗い影﹂を落としたのは明らかなんですよね。
★炭住再開発地域に引っ越す
私のような喘息の場合、症状が成長とともに改善されてくることがあるのですが、私の場合、10代を通じて治ることがありませんでした。
それには理由があります。運の悪いことに、中学時代に実家が﹁炭住地域﹂に引っ越してしまったのです。 ﹁燃料は灯油﹂が当たり前の時代になっても、炭鉱従事者が多く住む住宅地では、会社から安価で支給される石炭を未だに焚いていたのですね。ですので、釧路市内でも唯一﹁まだみんな﹂石炭を暖房として生活してる地域に、事もあろうに私の家が越してしまったのです。
ここからの実家時代は本当にきつかった。しかも家は﹁坂の上﹂にありw帰宅の際は、バス停からその坂を10分のぼっていきます。家につくと、とりあえずソファーにドサッと座り、だいたい30分くらい息を整えないと、次の行動が出来ません。毎春、そして秋冬の私は常にこんな感じでした。
そんな私の実家の近所を走っていた石炭列車が、冒頭で紹介した鉄道だったというわけです。
次回はこの鉄道の紹介をしていきましょう。鉄の人は楽しみにするといいよw
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★続き karamandarine.hatenadiary.jp
ここで何度も書いてるように、釧路という街は私の故郷でもあります。そしてこの石炭列車、そして炭鉱の工場は実家の近所にあり、帰郷するたび身近に見ることが出来ました。私も﹁鉄﹂ではありますが、幼少時からあまりに見慣れているため、この鉄道に関しては、さして特別感も感慨もなく﹁ああ。あるよねえ﹂くらいの感覚でした。春採湖沿いを走る景色は見たいと思いますが、旅客営業はしていないので叶いませんし、有志の同好会などで﹁石炭列車に乗る会﹂みたいな催しもやってるようですが、以前ここで*1書いたように﹁鉄ヲタさん﹂と縁を切った私に、そんな機会が訪れることもありませんでした。
★﹁煤煙とロマン﹂
さて。そんな釧路を舞台にした久我美子さんの映画﹁挽歌﹂について、ここで語っています。 karamandarine.hatenadiary.jp 当時の北海道は、日本全国であまり知られていなく﹁異国ロマン﹂的に語られることが多かった、というお話でした。この小説や映画をきっかけに﹁霧とロマンの街﹂などと言われることも多くなりました。今でも釧路のウリは﹁霧とロマン﹂そして﹁世界三大夕日﹂だと思われます。
しかし幼少時代を過ごした私にとってはどうでしょうか。個人的な家庭環境や学校生活も相まって﹁暗く辛く薄ら寒い街﹂に過ぎませんでした。
そんな私の悪環境に、更に追い打ちをかけたのが街の環境です。私は子供の頃からアレルギー、そして喘息持ちでした。発作になると本当に苦しく、黙ってるだけでも﹁息も絶え絶え﹂になり、当然ただ歩くことさえ苦しく、日常の行動が制限されていました。
最初に書いたように釧路には炭鉱があります。炭鉱があるということは、町の人々は﹁地元の石炭﹂を積極的に使うということでもあります。厳寒の地、しかも真夏でさえ20度を下回り、今現在でも﹁8月にストーブをつけた﹂という話は珍しいことではありません。 こうして年がら年中、石炭を焚いて暖房にしているということは、各家の煙突から年中﹁煤煙﹂が出ていることになります。ただでさえ﹁年中の霧﹂で大気の環境が悪いなか、石炭を焚いて各家からモクモク煙を出してたんじゃ、そら﹁空気が悪い﹂どころの話じゃないわけです。
上記﹁挽歌の記事﹂写真でも、坂の上の病院煙突から、モクモク黒煙が上がってるのが見えますね。
他にも挽歌に出てくるシーンで確認できます。
![f:id:maicou:20190617061112p:plain f:id:maicou:20190617061112p:plain](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/maicou/20190617/20190617061112.png)
先程も言いましたとおり、夏でさえ﹁暑い!﹂という日が殆どありません。母からの電話でも、8月だというのに﹁今日は寒くてストーブを付けたよ﹂と今でも報告があります。そういう街です。
そしてこれは幣舞橋の霧です。
![f:id:maicou:20190617061102p:plain f:id:maicou:20190617061102p:plain](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/maicou/20190617/20190617061102.png)
学校でも、教師に﹁発作時の怠惰な動き﹂を注意されたことが何度もありますし、嫌味な体育教師に﹁学校に来れるくらいなら授業も出られるだろう﹂などと無理くり体育の授業に参加させられたこともあります。マラソン大会でも常に後尾集団だったことから﹁不まじめなやつ﹂レッテルで常にバカにされました。これらの出来事が、子供時代の私に﹁かなり暗い影﹂を落としたのは明らかなんですよね。
★炭住再開発地域に引っ越す
私のような喘息の場合、症状が成長とともに改善されてくることがあるのですが、私の場合、10代を通じて治ることがありませんでした。
それには理由があります。運の悪いことに、中学時代に実家が﹁炭住地域﹂に引っ越してしまったのです。 ﹁燃料は灯油﹂が当たり前の時代になっても、炭鉱従事者が多く住む住宅地では、会社から安価で支給される石炭を未だに焚いていたのですね。ですので、釧路市内でも唯一﹁まだみんな﹂石炭を暖房として生活してる地域に、事もあろうに私の家が越してしまったのです。
ここからの実家時代は本当にきつかった。しかも家は﹁坂の上﹂にありw帰宅の際は、バス停からその坂を10分のぼっていきます。家につくと、とりあえずソファーにドサッと座り、だいたい30分くらい息を整えないと、次の行動が出来ません。毎春、そして秋冬の私は常にこんな感じでした。
そんな私の実家の近所を走っていた石炭列車が、冒頭で紹介した鉄道だったというわけです。
次回はこの鉄道の紹介をしていきましょう。鉄の人は楽しみにするといいよw
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