日本大百科全書(ニッポニカ) 「メソポタミア美術」の意味・わかりやすい解説
メソポタミア美術
めそぽたみあびじゅつ
ティグリス、ユーフラテスの二つの川に挟まれたメソポタミア地域︵現在のイラクの大部分と、シリアおよびトルコの一部にまたがる︶の美術。この地方は、ナイル川流域のエジプトとともに人類文明の発祥地として知られており、あわせて古代オリエント文明として考察される。この人類最古の両文明は、ほぼ同じ紀元前3500年から前3000年までの間にそれぞれ歴史時代に入っている。すなわち、エジプトがファラオによって統一に向かっているころ、メソポタミアではシュメール人によって多くの都市国家が建設され、粘土板に楔形(くさびがた)文字を用いて書く特殊な書法が発達した。
ティグリス川の中流および上流地方の北部メソポタミアには、シュメール人以前の新石器時代に属する遺跡がいくつか発見されている。たとえばテル・ハラフ出土の彩文土器はこの地方の文明の古さを物語っているが、新石器時代以後の文明の進展については南部メソポタミアがまず主導権を握った。テル・エル・ウバイド、ウルク、ジェムデト・ナスルなど各地の文明は、メソポタミアの初期文明を代表している。そして、シュメール人が建設した都市国家にそれぞれの国王が誕生した前3000年から前2340年に至る初期王朝時代には、都市文明の発達とともに美術もまた高度の隆盛をみるに至った。
﹇野村太郎﹈
メソポタミア文明の特色
エジプト文明とメソポタミア文明がその起源と形成期をほぼ同じくしているとはいえ、両側を砂漠によって遮られた細長いナイル渓谷と、多くの支流によって四通八達の広くて平坦(へいたん)なメソポタミア河床地帯とでは、その地理的条件が対蹠(たいしょ)的に異なっている。自然の防壁がほとんどない肥沃(ひよく)なメソポタミアには、どの方面からも外敵が容易に侵入できるため、エジプトにおけるような単独の元首による統一国家形成という考えはメソポタミアでは育ちにくかったし、そういった野望をもった王にしても、その命運が長く続いていくことはなかった。たとえば、シュメール人の都市国家では、王は真の主権者たるそれぞれの地方神の単なる執事のようなものであったことが知られている。それは、地方神が政治、経済、労働力、生産などのいっさいを掌握するいわゆる﹁神権的社会主義﹂の統制社会であったためで、神殿がその行政的な中心をなしていた。したがって、シュメールの都市国家では、聖域に倉庫、作業場、書記の部屋などがつくられ、その周囲に住宅が密集する都市プランが実現された。そして、この聖域の中心をなす高台に神殿が築かれた。この種の人工の高台はやがて巨大な規模に発展し、エジプトのピラミッドに比肩する偉容をもつに至る。これがジッグラトで、平原における陸標としての効果は、砂漠におけるピラミッドと並び称せられるが、その機能、そしてそれが象徴する意味は、ファラオの墳墓であるピラミッドとは著しく相違しているのである。
メソポタミアの長い歴史においては、各地方の対立抗争、外敵の侵入、新勢力の興隆と衰亡は日常茶飯事で、戦乱が相次いだ。しかし、このような混乱にもめげず、メソポタミア文明はシュメール以後約3000年にわたり、前539年に新バビロニア王国がアケメネス朝ペルシアによって滅ぼされるまで、明瞭(めいりょう)な特質を保ちつつ発展することができた。美術においては、通常これを、シュメール美術、バビロニア美術、アッシリア美術、そして新バビロニア美術に区別して、それぞれ観察するのが一般的である。
﹇野村太郎﹈
シュメール美術
メソポタミアの南部に最古の文明を生んだシュメール人の遺物で、現存するものはあまり多くない。建造物に関しては、石材をほとんど産出しないこの地で、シュメール人は日干しれんがや木材でしか家を建てなかったので、その建築は土台のほかほとんどなにも残っていない。ラガシュ、ウル、ウルク、ニップール、エリドゥ、キシュなどの都市の廃墟(はいきょ)がそれである。このうちウルでは初期王朝時代の墳墓群が発掘され、そこに穹窿(きゅうりゅう)をつけた地下室を認めることができる。ジッグラトも、古いものはあまり完全な形では残っていない。しかし、ウルクには前3500~前3000年ごろの建造と推定されるジッグラトの遺跡があり、その聖祠(せいし)の外壁が白色塗料を用いたれんがでつくられているところから、﹁白い神殿﹂の名称がある。この﹁白い神殿﹂は、屈折した参詣(さんけい)通路をもつシュメールの宗教建築の特徴をうかがうことができる遺構である。
彫刻でも石材の不足を反映して大規模なものはないが、神殿の礼拝像や奉献像、記念碑的な浮彫り、装飾彫刻などが各遺跡から出土している。このうち、ウルク出土の﹁女性頭部﹂︵バグダード、イラク博物館︶は、﹁白い神殿﹂とほぼ同時代の大理石像で、感性的な表現に優れる。また、アスマル︵古代名エシュヌンナ︶のアブ神殿出土の一群の神像︵イラク博物館ほか︶は5世紀ほど後のものと推定されるが、同じ大理石の丸彫り像で、円錐(えんすい)と円筒を基幹とする優れた幾何学的形態を示している。これらの礼拝像の特徴はその巨大な目で、有色のはめ込み細工による瞳孔(どうこう)をもつ︵ウルクの﹁女性頭部﹂ではすでに欠損している︶。これは、礼拝者との間の目による魂の交信を物語っている。
一方、木材、金箔(きんぱく)、ラピスラズリ、貝殻のような加工しやすい素材を組み合わせてつくった彫像や浮彫りでは、驚くほど精巧な写実的表現がなされている。ウル第1および第2王朝の王墓群︵前2000年代後期︶出土の奉献像﹁灌木(かんぼく)に後ろ足で立つ牡羊(おひつじ)﹂︵大英博物館︶はその好作例として名高く、ほかにウルの王墓のこの期の出土品としては、黄金の兜(かぶと)や鉢、貝細工の飾板をもつ竪琴(たてごと)、有名な﹁ウルのスタンダード﹂などが美術的な逸品として知られている。
﹇野村太郎﹈
バビロニア美術
バビロニアとは、古代メソポタミア南部のシュメール・アッカド地方に対する後代の呼称である。シュメールの都市国家は前2350年ごろセム系アッカド人のサルゴン1世により統一され、部分的には文化のうえからもシュメール人の王国からセム人の王国に移行する。アッカド王朝の滅亡とともに、前2060年ごろ、シュメール人は一時復興してウル第3王朝を建てる︵新シュメール時代︶が、5人の王を経て前1950年ごろエラム人に滅ぼされた。その後はイシン、ラルサ、マリ、バビロンなどの諸都市が覇を競うが、この分立状態は、同じくセム系のアムル人の建てたバビロン第1王朝︵前1830ころ~前1530ころ︶第6代の王ハムラビ︵在位前1792~前1750または前1726~前1686︶によって統一された。
元来セム民族は実利的な民族で創造の才能に乏しく、美術においても伝統的なシュメール美術を継承したにすぎないが、都市国家にかわる統一王国の出現により、主権者個人を賛美するという新たなモチーフが表れている。まずアッカド王朝の遺品では、ニネベ出土の﹁サルゴン王像﹂といわれる青銅の男性像頭部︵イラク博物館︶、スーサ出土の﹁ナラム・シンの石碑﹂︵ルーブル美術館︶などの有名な作例があげられる。ナラム・シン︵在位前2254~前2218︶はアッカド王朝第4代の王で、ルルビ人を攻略して勝利を収めた。この記念碑には彼の超人的な地位をたたえた浮彫りが施されている。
新シュメール時代では、都市国家ラガシュの遺跡から、支配者グデアの多数の彫像や奉献品が出土︵その多くはルーブル美術館所蔵︶し、シュメール美術掉尾(とうび)の栄光を伝えている。灰緑岩を素材とした﹁グデアの頭部﹂や﹁建築平面図を持つグデア像﹂は、メソポタミア美術の傑作に数えられている。
エジプトに匹敵する国家を築いたバビロンの統一者ハムラビは、﹁ハムラビ法典﹂編纂(へんさん)によって史上不滅の名を得ている。ルーブル美術館所蔵の﹁ハムラビ法典碑﹂は、この法典を高さ2メートル余の黒色玄武岩の一本石に3000行にわたって楔形文字で刻印し、上部に太陽と正義の神シャマシュから権力の印を受けるハムラビの姿を、﹁目には目を﹂という法典の精神にふさわしい緊迫感をもって高浮彫りで彫出している。この石碑のもつ高度の美的感覚と浮彫り技術は、セム民族がシュメール美術の正統な後継者になったことを如実に示している。こうして南部メソポタミアの文化的中心となったバビロンは、王朝倒壊後も長くその地位を守り続けた。
﹇野村太郎﹈
アッシリア美術
アッシリアは、メソポタミア北部のティグリス川流域を本拠にセム人の建設した国であるが、その勢力がもっとも強大であったのは前900年ごろから前612年ごろまでの新アッシリア時代であり、美術の最盛期もこれに伴っている。様式的には先進のシュメールおよびバビロニア美術に負うところが大きいが、歴代の王の豪奢(ごうしゃ)な権勢の誇示と、勇猛な武断の趣味が強く反映して、独得の性格をつくりあげている。
建築では宮殿建築が知られる。素材として石材や彩釉(さいゆう)れんがを、日干しれんがと併用しているため、たとえばコルサバード︵古代名ドゥル・シャッルキン︶のサルゴン2世︵在位前721~前705︶の宮殿のように、復原可能なまでに遺構や遺品の残っているものもある。宮殿の門や城壁には、見る者を威圧するような人頭有翼の霊獣類の丸彫りや浮彫りが施され、宮殿内部は王の戦勝、狩猟、饗宴(きょうえん)の光景を記録する連続浮彫りが銘文とともに飾られていた。この種の物語的浮彫りでは、アッシュール・ナシルパル2世︵在位前884~前859︶が造営したニムルード︵古代名カルフ︶の浮彫り群も知られる。またニムルードからは、シャルマネセル3世の﹁黒いオベリスク﹂︵大英博物館︶をはじめ、象牙(ぞうげ)製婦人頭部﹁アッシリアのモナ・リザ﹂︵イラク博物館︶など精巧な象牙細工が発掘されている。
またアッシリア最後の首都ニネベは、アッシュール・バニパル王︵在位前668~前627?︶の死後内紛が起こり、それに乗じたメディアと新バビロニアによって攻略され、前612年に徹底的な破壊を受けて廃墟と化した。しかし、19世紀から20世紀の数次の発掘により、アッシュール・バニパルの宮殿付属の図書館からは数万の楔形文字の粘土板をはじめ、優れた美術品が発掘された。おもなものに、宮殿壁面の浮彫り﹁アッシュール・バニパルの獅子(しし)狩り﹂、象牙細工﹁黒人を食い殺す雌ライオン﹂のようなメソポタミア美術を代表する優品がある︵出土遺物の大半は大英博物館所蔵︶。また、よく知られているものに、神、聖獣、動植物などをモチーフとした円筒印章がある。
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新バビロニア美術
前625年バビロンでアッシリアから独立したナボポラサルは、前612年メディアを援助してアッシリアを滅ぼして、新バビロニア王国︵カルデア王朝時代︶を建てた。この王国の支配者として有名なのがナボポラサルの子ネブカドネザル2世︵在位前605~前562︶で、官制を正して国力の充実に努め、宮殿や神殿を盛んに造営したので、首都バビロンはその治下においてもっとも栄え、オリエント世界の政治・文化の一大中心地となったのである。
新バビロニアの美術の中心をなすのは建築とその装飾で、アッシリア人の発明による彩釉れんがを盛んに用いているので、壁面装飾がきわめて多彩になっている。1899年から1917年にかけてのドイツの考古学者コルデウァイのバビロン発掘で、イシュタル門、行列道路、マルドゥク神殿跡、空中庭園や王座の間を含む宮殿跡、バベルの塔跡など、主としてネブカドネザル2世治下の遺品が発見された。そのうち有名なものが、ベルリンのペルガモン美術館で復原されたイシュタル門や行列道路の壁面で、獅子や竜などメソポタミア美術の特色をなす動物描写が、色鮮やかな彩釉れんがで華麗・優美によみがえっている。
このようにメソポタミア美術は、シュメール美術を根幹として、これにセム民族の趣味を加えて成長したバビロニア美術と、武の民アッシリアの気風によって継承されたアッシリア美術とからなる。そして、前539年に新バビロニア王国はアケメネス朝ペルシアによって滅ぼされるが、その文化はアケメネス朝、ササン朝のペルシアへと伝播(でんぱ)し、西アジア美術の中核としてその後の東西美術にきわめて大きな影響を及ぼした。
﹇野村太郎﹈
﹃江上波夫監修﹃図説世界の考古学2 古代オリエントの世界﹄︵1984・福武書店︶﹄▽﹃江上波夫・中山公男他著﹃新潮古代美術館1 オリエントの曙光﹄︵1980・新潮社︶﹄▽﹃H・ウーリッヒ著、戸叶勝也訳﹃シュメール文明――古代メソポタミア文明の源流﹄︵1978・佑学社︶﹄▽﹃P・アイゼレ著、岡淳訳﹃バビロニア文明――メソポタミア文明の栄光﹄︵1982・佑学社︶﹄
[参照項目] |
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