ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「メネリク2世」の意味・わかりやすい解説
メネリク2世
メネリクにせい
Menelik II; Menelek II
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
1844 - 1913
エチオピアの皇帝,政治家。
元・エチオピア皇帝。
1889〜1913年在位したエチオピアの皇帝。エチオピア中央部ショア王国の王家に生まれ、1865年ショア王となる。1889年スーダンとの戦いでヨハネス4世が戦死、皇帝となる。1896年イタリアと交戦、完勝し同年ソマリア領のオガデン地方を合併、ヨーロッパ列強のアフリカ分割期にエチオピアの統一と独立を固守、近代化政策を推進、1906年健康を害し事実上引退、’13年病死。
出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報
1844~1913(在位1889~1913)
エチオピアの地方政権ショア王(在位1865~89)からエチオピア皇帝に即位し,現在のエチオピアの領土を確定,軍備の近代化を推進。イタリアとのウッチャリ(ウチャレ)協定(1889年)締結後,保護領化の意図を見抜き1891年破棄。アドワの戦い(1896年)でイタリア進出をくじき独立を堅持。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…イタリアは1880年代にエチオピアのアッサブからマッサワに至る紅海沿岸に進出し,90年1月この地域をエリトリア植民地として支配下においた。一方1889年エチオピア皇帝位継承争いに乗じてショア王(のちエチオピア皇帝)メネリクと友好通商協定(ウッチャリ協定)を結び,エチオピアの保護領化を狙った。93年メネリクは協定を破棄してイタリアの干渉を排除しようとしたが,イタリアはエリトリア植民地を拠点としてエチオピアへの軍事侵略を続けた。…
…ファラシャは,モーセのエジプト脱出に従わなかったユダヤ人の子孫ともいわれていて,〈モーセ五書〉をエチオピアの古いゲエズ語で朗読する。エチオピア諸語【赤阪 賢】
【歴史】
[古王国の時代]
国としてのエチオピアの起源は歴史的というよりもむしろ伝説的で,ソロモン王とシバの女王のあいだに生まれたメネリク1世(前1000年ころ)によって創設されたといわれている。歴史的にその存在が確認できる最も古い国は,1世紀になって歴史に登場したアクスム王国である。…
…正式名称=エリトリア国State of Eritrea面積=12万1144km2人口(1996)=362万人首都=アスマラAsmara(日本との時差=-6時間)主要言語=ティグリニア語,アラビア語など通貨=エチオピア・ビルEthiopian Birrアフリカ大陸北東部に位置する国。西でスーダン,南でエチオピア,南東部でジブチに接し,紅海に面したその海岸線は約1000kmに達する。エリトリアという名称は,古代ギリシア語で〈赤〉すなわち紅海を意味したエリトゥライアに由来する。…
※「メネリク2世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
タコノキ科の常緑高木。小笠原諸島に特産する。幹は直立して太い枝をまばらに斜上し,下部には多数の太い気根がある。葉は幹の頂上に密生し,長さ1〜2m,幅約7cmで,先は細くとがり,縁には鋭い鋸歯(きょし)...
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