レヒフェルトの戦(読み)レヒフェルトのたたかい

改訂新版 世界大百科事典 「レヒフェルトの戦」の意味・わかりやすい解説

レヒフェルトの戦 (レヒフェルトのたたかい)


1退9551宿810123西LechfeldGunzenlee西11962

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百科事典マイペディア 「レヒフェルトの戦」の意味・わかりやすい解説

レヒフェルトの戦【レヒフェルトのたたかい】

955年ドイツ王オットー1世が,東方より中欧に侵入したマジャール人を,アウクスブルク南方近郊のレヒフェルトLechfeldで撃破した戦い。敗れたマジャール人は以後ハンガリーに定着,西欧文明に同化した。

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世界大百科事典(旧版)内のレヒフェルトの戦の言及

【オットー[1世]】より


()9(955)西調29511

【ザクセン朝】より


()(933)(955)西西(1西)西調

【戦争】より


1(955)西(1066)

【ドイツ】より

…962年にオットー1世(在位936‐973)は皇帝の冠を戴き,ローマ・カトリック教会に対する庇護権をもつ神聖ローマ帝国が成立した。オットー1世は東から侵入しつつあったマジャール人に対して辺境伯領Markを設置し,レヒフェルトの戦(955)でその進出をはばみ,帝国の統一に努力を傾けた。しかしながら部族が割拠するドイツ国内の統治に当たってオットー1世がとった帝国教会政策は後のドイツの命運をも定める大きな意味をもっていた。…

※「レヒフェルトの戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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