日本歴史地名大系 「下野村」の解説
下野村
しものむら
[現在地名]高千穂町下野
三み田た井い村の北に位置する。東は岩いわ戸と村、南西は五ヶ瀬川を挟み押おし方かた村。高千穂一八ヵ郷の一。下之村とも書く。興国二年︵一三四一︶に三田井郷地頭職は芝しば原はらの豪族芝原性虎に宛行われている︵同年四月二三日﹁後村上天皇綸旨写﹂阿蘇文書︶。この三田井郷内に当地も含まれており、性虎は正平五年︵一三五〇︶一〇月二一日に去文︵同文書︶を書き、契約によって同郷のうち下之村などを阿蘇氏の一族恵良筑後守に渡した。恵良筑後守は阿蘇大宮司恵良惟澄のことで、すでに高たか知ち尾お庄上かみの村を恩賞として得ており︵正平二年九月二〇日﹁恵良惟澄官軍恩賞所望交名并闕所地注文案写﹂同文書︶、高知尾北部一帯は阿蘇氏の一族の支配に入った。文亀二年︵一五〇二︶八月吉日の大神右武安堵状写︵佐藤家文書︶では﹁下村内このいやしき﹂三貫の地を佐藤山城守に安堵し、年未詳七月二五日の大神右武書状写︵同文書︶では当村内深ふか井い野のいや︵居屋敷か︶について佐藤修理進に書状を送っており、岩戸の野のか方た野のに所領をもつ三田井︵大神︶一族の佐藤氏が当地に居屋敷を所持していた。
下野村
しもづけむら
[現在地名]船岡町下野
橋はし本もと村の南、大おお江え川上流域に位置する。財さい原ばら︵現在は橋本地内才原︶・小おぐ倉ら・森もり原ばら・上かみ野の・手て火び・寺前・和わ見みなどの支村がある︵因幡志︶。橋本村の北方に位置する財原から南西に山越えして智ち頭ず郡赤あが波なみ村︵現用瀬町︶に通じる道があるほか、本村南方の小倉から大江川の支流和わみ見だ谷に川に沿って南西の智頭郡杉すぎ森もり村︵現同上︶に至る道がある。拝領高は一五二石余、本免は五ツ一分。藪役銀一〇六匁五分を課されていた︵藩史︶。﹁因幡志﹂によれば家数八六で、産物は橋本村に同じ。安政五年︵一八五八︶の村々生高竈数取調帳では生高二四五石余、竈数一二一。
下野村
しものむら
- 滋賀県:八日市市
- 下野村
[現在地名]八日市市建部下野町
上かみ中なか村の東にある。東部を愛え知ち川が北流し、出でし生ようは同川東岸にある。もと野の村ないし西にし野の村とよばれた。元亨三年︵一三二三︶八月六日の官宣旨案︵東京大学史料編纂所蔵長元至寛徳度改元勘文紙背文書︶に野村郷とみえ、建たけ部べ社︵現大津市︶の神用料に充てられていた。応永二八年︵一四二一︶五月一〇日の建部庄保司方百姓等起請文︵天龍寺文書︶では野村郷の百姓二〇名らが京都天龍寺に対し年貢勤納などを誓っている。
下野村
しものむら
下野村
しものむら
- 大分県:佐伯市
- 下野村
[現在地名]佐伯市鶴望
塩しお屋や村の西、番ばん匠じよう川下流左岸の山地で、北は佐伯湾に面する。下ノ村とも記す。江戸時代、広義には高たか畠ばたけほか五ヵ村で構成し下野村組とも称した。大永八年︵一五二八︶一〇月一一日の大神惟豊知行預ケ状︵薬師寺文書︶に﹁下ノ村﹂とみえ、惟豊は高畑右京亮に同地のうち野口四比郎分を預け置いている。天正六年︵一五七八︶高城・耳川合戦で戦死した佐伯家中のうちに下野村市之正がいた︵栂牟礼実録︶。慶長豊後国絵図に村名がみえ高七二七石余。
下野村
しものむら
- 岐阜県:加茂郡
- 下野村
京都祇園社にかかわる所領で、史料はいずれも八坂神社文書。文和二年︵一三五三︶七月二五日の高家入道某施行状によれば、幕府が下野兵庫助の闕所跡地である﹁下野村﹂の地頭職を祇園社に寄進し、下地を社務雑掌に沙汰しつけるべきことを土岐氏一族で当時の美濃守護代とも考えられる多治見修理亮に書送っている。これに基づき、同年七月二八日多治見氏の代官村山頼忠により下地が打渡された︵村山頼忠打渡状︶。この時期には南朝の動きが活発で、北朝の後光厳天皇は美濃国小おじ島ま︵現揖斐郡揖斐川町︶の行宮におり、幕府は祇園社などに対したびたび祈祷を行わせているので祈祷の功によるものと考えられる。
明徳元年︵一三九〇︶祇園社は新たに深ふか田だ郷・富とみ永なが郷、春はる近ちかのうち吉よし家いえ郷の三所を寄進されるが︵足利義満寄進状案など︶、いずれも闕所跡地で、翌二年にはこれら合せて四ヵ所の所領を一括して再度の下地打渡を行っている︵松田九郎左衛門・布施某連署打渡状案︶。
下野村
しものむら
[現在地名]長陽村下野
南流する黒くろ川の左岸にあり、上流は赤あか水みず村︵現阿蘇町︶、下流は喜き多た村小村の黒くろ川かわ村、南東は喜多村小村の沢さわ津づ野の村、西は合こう志し郡立たて野の村に接する。もと喜多村のうちに含まれていたと思われる。布田手永に属し、宝暦七年︵一七五七︶の布田手永手鑑では高が記されず庄屋も喜多村と兼帯で、竈数二〇、男四五・女三六、牛九・馬二一、新野開三町二反四畝余、堤一ヵ所が記され﹁右の村御仕立百姓にて、高地は御座無候、田畑開方にて御座候﹂とある。﹁南郷事蹟考﹂では﹁喜多村ヲ離ルルコト二里、喜多村ノ掛リ也﹂とあり、喜多村の小村として扱われ、﹁当所ハ昔時下野御狩場ナリ、近キ百七八十年以来民屋トナル、御狩場ハ当所近辺バカリノ様ニ心得ル者多ケレドモ、其旧蹟ハ当村ノ中ニハ少シ、阿蘇内ノ牧手永ノ中赤水村ニ多シ、総テ下野ト云フハ阿蘇山ノ麓ノ総名ナリ﹂とする。
下野村
しものむら
[現在地名]清水市下野・下野町 ・下野北 ・下野中 ・下野西 ・下野東 ・下野緑町 ・飯田町 ・蜂 ヶ谷南町 ・高橋 三丁目
山やん原ばら村の南東、山原川中流左岸に位置し、南と東は高たか橋はし村、西は石いし川かわ村。天文一八年︵一五四九︶八月一一日の駿府浅間社社役目録︵村岡大夫文書︶に﹁下村﹂とみえ、高たか部べ御厨のうちの当村などが青山放生会流鏑馬郷役として、三年に一度交替で二貫一〇〇文を負担している。弘治二年︵一五五六︶から永禄元年︵一五五八︶頃の臨済寺・善得寺等諸塔頭・諸末寺帳︵臨済寺文書︶によると、当地の臨りん済ざい寺︵現静岡市︶末寺の崇そう寿じゆ寺︵現臨済宗妙心寺派︶は福島徳蔵入道が出家した際に所領を寄進されている。
下野村
しものむら
[現在地名]富山市下野・久郷 など
井い田だ川右岸に位置し、西対岸は枝村の下野新村、北対岸は五ごふ福く村、南は新にい川かわ郡高たか田た村。現在当地の北側を流れる古ふる川がもとの井田川にあたる。婦負郡に属し、寛永一六年︵一六三九︶以降富山藩領。正保郷帳では庄高村︵庄高田村か︶共として高三七八石余、田方六町八反余・畑方一八町三反余、新田高四五石余。承応四年︵一六五五︶の村御印では草高五八六石余︵蔵入︶、免一ツ三歩一厘、ただし草高のうち五石余は免六歩六厘︵村々御印物等書上︶。明和二年︵一七六五︶には古高五二〇石︵定免四ツ一歩︶で、うち二五石余が川崩れ・水損につき永引されている︵村々御印物等書上︶。寛政二年︵一七九〇︶の高物成品々手鏡では古高四七六石余・定免四ツ一歩、新田高一七〇石余︵平均免一ツ八歩九味︶、定小物成として柳差役六匁・鮭川役二五匁・鮎川役二一匁・鱒川役一〇匁・舟役三〇目。
下野村
しものむら
下野村
しものむら
- 佐賀県:鳥栖市
- 下野村
[現在地名]鳥栖市下野町
筑後川︵旧本流、現新しん宝ほう満まん川︶・安やす良ろ川︵現新宝満川の支流︶に沿う低地に立地。近代の治水工事以前は水害激甚地であった。観応三年︵一三五二︶の安楽寺領注進目録︵大宰府神社文書︶に﹁下野庄﹂とみえ、文禄四年︵一五九五︶の豊臣秀吉朱印状写︵鍋島家文書︶に﹁下の村﹂、慶長絵図に﹁下野村﹂とみえる。村内の小名として末すえ安やす・江えざ崎き・平ひら川かわ内ち・四しろ郎うま丸る・辻つじがある。
佐賀藩の藩政期、地米︵年貢︶高は貞享四年︵一六八七︶改郷村帳で六五五石余、村全部が蔵入地である。
下野村
しものむら
- 広島県:竹原市
- 下野村
[現在地名]竹原市下野町
朝あさ日ひ山︵四五四・一メートル︶の東側、東南流する賀茂川沿いに開ける村で、南は下しも市いち村、西北は竹たけ原はら東ひが野しの村、西南は吉よし名な村に続く。賀茂郡に属した。
寛治四年︵一〇九〇︶京都下鴨社に寄進された竹原庄のうちに含まれる。村内の馬うま橋ばし古ふる市いちは、小早川茂平の四男政景が竹原小早川家を分立、新しん庄じよのうの木きむ村ら城に拠ったのち、その約三キロ賀茂川下流に市場を経営した地で、嘉吉三年︵一四四三︶八月一二日付の小早川陽満置文写︵小早川家文書︶には﹁領内のとく人共ねんころにふち候て﹂と商人保護を記している。また年号不詳の正月祝儀例書写︵同文書︶には、正月二日の祝儀に市の預が参列、四日には年男を連れて市にくだることなどが記される。
下野村
しものむら
[現在地名]山崎町東下野
揖い保ぽ川の支流伊いさ沢わ川の中流域に位置し、東は大おお谷たに村。伊沢川の中流以北は都つ多た川︵都多谷︶ともよばれ、同川の下流にあるのが村名の由来という。領主の変遷は蟹かに沢がさわ村と同じ。正保郷帳では村名に﹁都多下野村﹂の肩書があり、田方七七石余・畠方四六石余。下村氏手控帳︵下村家文書︶によると、寛文―延宝︵一六六一―八一︶には四ツ成高一六一石余、田六町四反余・畑三町九反余、小物成銀五一匁︵茶役三一匁余・山畑役一〇匁余・楮役三匁余・栗役三匁余・漆役二匁余・鉄砲役一匁余︶・桑役︵真綿︶一一〇匁、家数一六・人数一一二、馬六・牛一四。明治八年︵一八七五︶東下野村と改称。
下野村
しものむら
[現在地名]杉戸町下野・高野台西
下しも高たか野の村の北、茨ばら島じま村の北西に位置し、中央部を日光御成道が通る。田園簿に村名がみえ、田高一〇七石余・畑高九〇石余で、幕府領。﹁風土記稿﹂成立頃は旗本山高・鈴木二氏の相給となっており、家数三五。寛延二年︵一七四九︶の新田検地分八石余は幕府領として幕末まで続いたと考えられる︵小島家文書ほか︶。日光道中の往還通掃除町場は下高野村地内八三間余で︵宿村大概帳︶、杉戸宿の助郷村であった︵享保八年﹁杉戸町助郷帳﹂長瀬家文書︶。幕府鷹匠頭戸田五助組の捉飼場で︵文化一五年﹁捉飼場書上﹂藤塚村文書︶、慶長六年︵一六〇一︶から寛文元年︵一六六一︶の返上までは陸奥仙台伊達家の鷹場であった︵貞享元年﹁久喜鷹場村数覚﹂伊達家文書︶。
下野村
しものむら
下野村
したのむら
下野村
しものむら
下野村
しものむら
下野村
しものむら
下野村
しものむら
下野村
しものむら
下野村
しものむら
下野村
しものむら
下野村
しものむら
下野村
したのむら
下野村
しものむら
- 富山県:滑川市
- 下野村
[現在地名]滑川市下野
早はや月つき川が形成した隆起扇状地︵室山野台地︶の南縁部に位置し、西は小おじ鹿か野の村。文政九年︵一八二六︶椎名道三が室むろ山やま野の新用水を完成させ、室山野新開所︵大林・堀内・大日・千鳥・中野・下野の六ヵ村︶で翌一〇年から稲の作付を開始し、天保三年︵一八三二︶に室山野全体で出来高一千二四四石、収納米一三五石余となっており、開発が進行したことがわかる︵﹁室山野新開所物成・用水普請算用書﹂伊東家文書︶。
下野村
しものむら
下野村
しものむら
- 千葉県:市原市
- 下野村
[現在地名]市原市下野
潤うる井い戸ど村の東に位置する。文禄三年︵一五九四︶の上総国村高帳に村名がみえ、高一三三石。元禄郷帳では高一三四石余で、幕末まで変わらない。寛政五年︵一七九三︶の上総国村高帳では家数一八で、旗本酒井領。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報