中国映画(読み)ちゅうごくえいが

日本大百科全書(ニッポニカ) 「中国映画」の意味・わかりやすい解説

中国映画
ちゅうごくえいが


18968()西1905()19131920()()


1930年代進歩派


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日本占領下の映画


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 19371945()


第二の黄金時代

抗日戦争の勝利から中華人民共和国の成立に至る数年間は中国映画の第二の黄金時代である。重慶から帰ってきた国民党政府の腐敗を痛烈に批判した諸作品、蔡楚生・鄭君里(ていくんり/チョンチュンリー)(1911―1969)監督の『一江春水向東流(春の河、東へ流る)』(1947)や、鄭君里監督の『烏鴉与麻雀(カラススズメ)』(1949)がある一方、みごとにブルジョア的なソフィスティケーテッドコメディーである桑弧(そうこ)(1916―2004)監督の『太々万歳』(1947)があり、1930年代フランスの詩的リアリズム映画を思わせる微妙な恋愛心理劇、費穆(ひぼく/フェイムー)(1906―1951)監督の『小城之春』(1948)がある。

[佐藤忠男]

中華人民共和国成立後


1949()19121960()1916199519501959()1925 1963()19651966101930

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改訂新版 世界大百科事典 「中国映画」の意味・わかりやすい解説

中国映画 (ちゅうごくえいが)

中国は自国資本による映画製作を始めたのがもっとも遅い国の一つであり(1918年商務印書館が映画部を創設,22年上海に明星影片公司を創立),世界映画史に及ぼした影響もほとんどないといっていいほどである。しかし,1930年代には,日本の侵略開始に対して田漢,夏衍らの左翼知識人が映画界入りして反帝国主義・抗日の思想をこめた映画を次々と送り出し,芸術的な成熟期を迎えている。ほとんどが上海で製作されていたこの時期の傑作には,中国初の本格的トーキー作品でもある蔡楚生監督《漁光曲》(1934),岳楓監督《逃亡》(1935),孫瑜監督《大路》(1935),沈西苓監督《十字街頭》(1937)などがある。37年に日本と中国が全面戦争に突入し,上海に日本軍の手が伸びると映画人たちは国民政府の軍とともに漢口,重慶へ退き,また延安,香港へ逃れるなどして抗日映画の製作をつづけた。その間,他方では満州国における満州映画協会(満映),および日本占領下での日中合弁の中華電影股份有限公司などによる合作映画,あるいはむしろ一種の植民地映画がつくられていた。第2次世界大戦終結後,おもな映画人たちは上海に戻ったが,49年,中華人民共和国の成立とともに香港に移った者も少なくない。人民共和国政府は51年,映画産業を国有化しその発展に力を注いだ。〈新中国最初の傑作〉として世界的に知られているのが水華,王浜共同監督による《白毛女》(1950)である。建国当時の年間映画人口は4731万人だったのが,63年には33億人(製作本数は1964年に長編が480本)という発展ぶりを見せたものの,66年に始まる〈文化大革命〉とともに映画人の活動は停滞し,70年代後半まで低迷をつづけた。だが,76年に毛沢東が死去し,〈四人組〉が失脚すると,再び隆盛を始め,83年には上海,北京,長春など11ヵ所の映画製作所で127本の長編を製作し,273億人の映画人口を数える〈映画大国〉になるに至った。〈四人組〉時代の知識人の苦悩を描いた孫羽,王啓明共同監督の《人,中年に到る》(1982),老舎の戯曲を映画化して半世紀にわたる政体や人心の移り変りを描く謝添監督《茶館》(1982)などのすぐれた作品がつくられる一方,国際映画祭への出品,香港との《少林寺》(1982),日本との《未完の対局》(1982)のような合作にのり出すなど,国外へのアピールも積極的になっている。また,〈四つの現代化〉路線を遂行するために,教育映画や科学映画の製作も活発になっている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中国映画」の意味・わかりやすい解説

中国映画
ちゅうごくえいが

中国人による映画制作は 1905年に京劇を撮影した『定軍山』に始る。最初の劇映画は『難夫難妻』 (1913) で,初期の中国映画はアメリカ映画の影響を受けながら成長した。満州事変勃発後は『春蚕』 (33) や『大路』 (34) など,左翼知識人による抗日救国,反封建,反買弁資本の映画が上海を中心に続々と制作され,日本占領下でも寓意的な抗日映画『木蘭従軍』が発表される。中華人民共和国成立後,映画は政治の宣伝手段となり,『白毛女』 (50) のような平板な革命劇も撮られたが,シェ・チン (謝晋) 監督の『舞台姉妹』 (64) など社会主義リアリズムの秀作も生み出された。文化大革命で映画制作は一時とだえるが,80年代に入ってからはチェン・カイコー (陳凱歌)チャン・イーモウ (張芸謀),ウー・ツーニウ (呉子牛) など若い世代の作品が世界から注目を浴びている。

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世界大百科事典(旧版)内の中国映画の言及

【香港映画】より

… 香港で初めて映画製作が行われたのは1909年とも13年ともいわれる。トーキー時代になると,海外にいる華僑を対象にした広東語の映画を製作することによって一定の市場を得るが,活況を見せるのは,中国映画のほとんどを製作していた上海から難民として逃れてきた映画人をうけ入れて〈東洋のハリウッド〉とまで呼ばれるに至ってからのことであった。上海の映画人は,まず30年代に日本軍から逃れ(1937年に上海が日本軍に占領されて後,41年に香港が占領されるまで,香港は反日映画製作のもっとも重要な拠点となった),46年には国民党から,49年には中国共産党の人民解放軍から逃れて香港にやってきて,香港映画の基礎を築くことになる。…

※「中国映画」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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