デジタル大辞泉
「以仁王」の意味・読み・例文・類語
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もちひと‐おう‥ワウ【以仁王】
(一)後白河天皇第二皇子。母は権大納言藤原秀成の娘成子。高倉宮と称された。母が摂関家の出でないため親王宣下を得られず、不遇のうちに成長。治承四年︵一一八〇︶源頼政の勧めで平氏討伐の令旨を発し、諸国同志を糾合しようとしたが、事が発覚して平知盛らに追われ、宇治川の戦いで戦死した。しかし王の発した令旨は諸国源氏勃興の糸口となった。仁平元~治承四年︵一一五一‐八〇︶
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以仁王 (もちひとおう)
生没年:1151-80(仁平1-治承4)
後白河天皇の第3皇子。異説に1150年︵久安6︶の誕生。母は権大納言三条季成の娘高倉三位成子。兄の守覚法親王が早くに出家したため,普通には第2皇子といわれる。三条宮,高倉宮とも称し,のち挙兵時には最勝︵親︶王と号した。幼少のおり天台座主最雲の弟子となったが,師の没後還俗︵げんぞく︶し,65年︵永万1︶元服。八条院猶子。若くして英才の誉れが高く,皇位継承の有力候補と目されたが,異母弟憲仁︵高倉天皇︶の母建春門院平滋子の妨害により,親王宣下も受けられぬ不遇をかこった。79年︵治承3︶平氏のクーデタにより父法皇が幽閉され,王も多年知行してきた常興寺︵領︶を没収されるに及び,翌年4月源頼政を語らい,平氏討伐の令旨︵りようじ︶を発した。しかしこの企ては早々に漏れ,三井寺から南都に敗走する途中,5月26日光明山鳥居の前︵京都府木津川市の旧山城町綺田︵かばた︶︶で戦死した。挙兵には失敗したものの王の令旨は治承・寿永内乱の起爆剤となり,生存説も長く絶えなかった。
執筆者‥杉橋 隆夫
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以仁王
もちひとおう
(1151―1180)
後白河(ごしらかわ)天皇の第二皇子。母は藤原季成(すえなり)の女(むすめ)成子。三条高倉(さんじょうたかくら)に住み高倉宮とよばれた。才学優れ、人望もあったが、建春門院(けんしゅんもんいん)平滋子(しげこ)︵後白河天皇女御(にょうご)︶に嫉視(しっし)され、親王宣下を得られず王にとどまった。1180年︵治承4︶4月源頼政(よりまさ)の勧めにより平氏討伐の挙兵を決意する。自らを最勝(さいしょう)親王と称し、平氏討伐後は皇位につくことを宣言した令旨(りょうじ)を、源行家(ゆきいえ)を召して全国の源氏に伝えさせた。まもなく事が発覚し、王は園城(おんじょう)寺に逃れた。朝廷では王を源以光(もちてる)と改名させ土佐に流すこととした。園城寺大衆(だいしゅ)は以仁王を奉じて抵抗したが、ついに5月25日、夜陰に脱出し奈良に向かった。翌日宇治川(うじがわ)での戦いで頼政以下ことごとく討ち死にした。このとき王は流れ矢に当たって死んだという。
﹇田辺久子﹈
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以仁王
もちひとおう
[没]治承4 (1180).5.26. 宇治
後白河天皇の第3皇子。兄が早くに出家したため,第2皇子とされることもある。母は権大納言藤原季成の娘成子。三条宮,高倉宮と称した。母が摂関家の出でなかったため,才能,人望はあったが,親王宣下を受けられず不遇のうちに成長した。治承4︵1180︶年源頼政に奉じられて平氏討滅の謀主となり,政権樹立の令旨を諸国の源氏に伝えて挙兵を促した。しかし,はかりごとが漏れたため,頼政とともに園城寺に入り衆徒の力を頼んだがむなしく,興福寺を頼って奈良へ逃れる途中宇治で流矢にあたって没した。
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以仁王
もちひとおう
1151~80.5.26
後白河天皇の第3皇子。母は藤原季成(すえなり)の女成子。三条宮・高倉宮と称する。幼くして天台座主最雲(さいうん)の弟子となり,1165年(永万元)に元服。八条院の猶子(ゆうし)となるが,親王宣下をえられず不遇であった。皇位継承者と目されたが,79年(治承3)平清盛のクーデタにより父後白河上皇が幽閉され,翌年安徳天皇が即位,皇位の望みを絶たれた。同年源頼政の勧めに従い,最勝親王と自称し平氏追討の令旨(りょうじ)を発して挙兵を試みたが,準備の整わないうちに計画が露顕。このため園城寺に逃れ,さらに南都に逃走中,宇治川の戦で敗死。王の令旨は諸国の源氏に伝えられ,源頼朝・同義仲らの挙兵につながった。
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以仁王 もちひとおう
1151-1180 平安時代後期,後白河天皇の第3皇子。
仁平(にんびょう)元年生まれ。母は藤原成子。平氏の圧力で親王になれず,不遇だった。治承(じしょう)4年源頼政(よりまさ)の勧めで最勝親王と自称し,平氏追討の令旨(りょうじ)を各地の源氏に発する。発覚したため頼政らと挙兵したが,治承4年5月26日山城(京都府)綺田(かばた)で討ち死に。30歳。通称は高倉宮,三条宮。
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以仁王
もちひとおう
平安後期の皇族
後白河天皇第3皇子。1180年源頼政のすすめで平氏征討の令旨 (りようじ) を発して挙兵したが,平氏の攻撃をうけ園城寺にのがれ,さらに奈良に向かう途中,宇治平等院で敗死した。しかし王の令旨は諸国の源氏に伝えられ,源平合戦の口火となった。
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世界大百科事典(旧版)内の以仁王の言及
【治承・寿永の内乱】より
…1180年(治承4)以仁王(もちひとおう)の令旨(りようじ)を受けた諸国源氏の挙兵から,85年(文治1)3月長門国壇ノ浦(下関市)に平氏一門が壊滅するまで,主として源平両氏による決戦のかたちをとって進行した全国的規模の内乱。当時の年号を冠してこう呼び,たんに治承の乱,あるいは源平の合戦(争乱)とも称する。…
【八条院】より
…八条東洞院を居所とし,膨大な院領を保持する八条院は,その後も政治に影響力をもった。[以仁王]︵もちひとおう︶の子女を庇護し,80年(治承4)以仁王の挙兵のさい,その子を追捕︵ついぶ︶すべく平家の軍勢は女院の居宅を囲んだ。また平家一門の都落のさい平頼盛を保護し,九条兼実も接近を図っている。…
【源頼政】より
…ほどなく出家して法名を真蓮(一説に頼円)といい,源三位入道と呼ばれた。80年5月後白河院の皇子[以仁王]︵もちひとおう︶を奉じて挙兵,平氏方は頼政の行動を掌握しきれず,以仁王の討手の一人に頼政を予定したほどであった。同月26日近江の園城︵おんじよう︶寺から南都へ向かう途中,宇治で敗死した。…
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