日本歴史地名大系 「小郡市」の解説 小郡市おごおりし 面積:四五・五〇平方キロ 県のほぼ中央部、筑後平野の北西端部に位置する。東は三(み)井(い)郡大(たち)刀(あら)洗(い)町・朝(あさ)倉(くら)郡三(み)輪(わ)町、西は佐賀県鳥栖市・三(み)養(や)基(き)郡基(きや)山(ま)町、南は三井郡北(きた)野(の)町・久留米市、北は筑(ちく)紫(し)野(の)市・朝倉郡夜(や)須(す)町に接する。東西約六キロ・南北約一二キロ。中央部を南北に宝(ほう)満(まん)川が貫流し、流域には平坦な沖積地が広がり、北東部には城(じよん)山︵別名花立山、一三〇・六メートル︶があり、北西部の三(みつ)沢(さわ)地区一帯には標高九〇―二〇メートルのなだらかな三(みく)国(に)丘陵などがある。 〔原始・古代〕 北部の三国丘陵や城山麓で旧石器時代の遺物が二〇以上の遺跡で発見されている︵遺構は未発見︶。縄文時代の遺跡は各時代にわたる干(ひか)潟(たむ)向(かい)畦(あぜ)ヶ浦(うら)遺跡、早期の三(みつ)沢(さわ)北(きた)松(まつ)尾(おぐ)口(ち)遺跡、前期から後期にわたる横(よこ)隈(ぐま)山(やま)遺跡などがある。弥生時代の遺跡では三国丘陵で爆発的な増加を示しており、農耕開始期の集落跡として津(つこ)古(つち)土(と)取(り)遺跡・三(みつ)沢(さわ)栗(くり)原(はら)遺跡・力(りき)武(たけ)前(まえ)畑(はた)遺跡などがある。力(りき)武(たけ)内(うち)畑(はた)遺跡では水稲稲作導入期の井堰が検出された。横(よこ)隈(ぐま)上(かみ)内(うち)畑(はた)遺跡や三(みく)国(にの)の(は)鼻(な)遺跡では弥生前期の木棺墓群がある。三(みつ)沢(さわ)蓬(ふつ)ヶ浦(うら)遺跡の畑状遺構、三(みつ)沢(さわ)公(こう)家(けん)隈(くま)遺跡の水田跡などの生産遺跡もみられる。前期の環濠も津(つこ)古(うち)内(は)畑(た)遺跡・三(みつ)沢(さわ)北(きた)中(なか)尾(お)遺跡・横隈山遺跡・横(よこ)隈(ぐま)北(きた)田(だ)遺跡などにある。三沢遺跡や三(みつ)沢(さわ)一(いち)ノ口(くち)遺跡は規模が大きく、三国丘陵を代表する集落遺跡となっている。横(よこ)隈(ぐま)鍋(なべ)倉(くら)遺跡・三国の鼻遺跡などでは多量の朝鮮系無文土器が出土している。集落跡の近辺には甕棺墓を中心としたハサコの宮(みや)遺跡・北(きた)牟(む)田(た)遺跡・横(よこ)隈(ぐま)狐(きつ)塚(ねづか)遺跡などの集団墓地跡がみられる。中期以後は銅戈を出土した大(おお)板(いた)井(い)遺跡、多紐細文鏡が発見された小(おご)郡(おり)若(わか)山(やま)遺跡など、市域中央部の台地に中心が移る。後期には戦略的要地となる丘陵高台に環濠集落︵三国の鼻遺跡︶が形成される。古墳時代では、津(つこ)古(しよ)生(うが)掛(け)古墳や津古一号・二号墳、三国の鼻一号墳などの前期古墳が連続しており、首長墓系列をなす。同後期には三国丘陵と花立山麓に群集墳が発達する。六世紀後半、苅(かり)又(また)古窯跡群で須恵器の生産が始まる。東部の上(かみ)岩(いわ)田(た)遺跡は七世紀後半、評段階の地方官衙とされる。﹁日本書紀﹂持統天皇三年︵六八九︶六月二四日条に﹁筑紫小郡﹂で新羅の弔使を接待したとあるが、小郡の地名はこの外交使節を迎える施設に由来するという説がある。令制下では、現市域は中央部から北部にかけての一帯が御(みは)原(ら)郡、南部が御(み)井(い)郡に属した。﹁和名抄﹂に記す御原郡日(ひか)方(た)郷・板(いた)井(い)郷などが市域に比定され、集落遺跡の干潟遺跡や大板井遺跡群との関連が注目される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小郡市」の意味・わかりやすい解説 小郡〔市〕おごおり 福岡県中部,筑紫平野の北部,久留米市の北に接する市。 1955年小郡町と味坂 (あじさか) ,三国,御原 (みはら) ,立石 (たていし) の4村が合体,72年市制。沖積地の水田では米作,台地上では野菜の栽培と養豚が行われる。福岡,久留米両市の間にあって,1960年頃から通勤者の住宅都市として発展。奈良時代の郡衙跡とみられる小郡官衙遺跡 (史跡) ,旧宿場町松崎などの遺跡のほか,県種畜場,陸上自衛隊駐屯地もある。西日本鉄道大牟田線,甘木鉄道,国道 500号線が通り,大分自動車道の筑後小郡インターチェンジがある。面積 45.51km2。人口5万9360︵2020︶。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報