日本歴史地名大系 「池鯉鮒町」の解説
池鯉鮒町
ちりゆうまち
現知立市の西北に位置し、町の北を逢妻川が流れる東海道の宿場町。慶長六年︵一六〇一︶東海道の宿駅に指定されて以来、幕府の道中奉行と刈谷藩との二重の支配下にあった。江戸時代には﹁池鯉鮒﹂と記すのが普通で、天保郷帳にも池鯉鮒としてあるが、古くは知立と記され、﹁文徳実録﹂の﹁知立神﹂を初見とする。﹁延喜式﹂神名帳所載の﹁知立神社﹂鎮座の地。知立神社神主家永見氏の永見氏家譜によれば、当時同地方が知立神社の祖三河国造の勢力圏に包含されていたことがわかる。﹁和名抄﹂高山寺本にある碧あお海み郡一五郷のうちの智ちり立ゆう郷がこの地に比定される。古代の東海道は町の北を通っていた。
中世の鎌倉街道は、矢やは作ぎ―宇うと頭う―里さと―八やつ橋はし―沓くつ掛かけ―鳴なる海みを通るのが普通であったが、桶おけ狭はざ間まの戦の際の今川軍の通過について﹁三河物語﹂は、﹁義元は︵中略︶吉田を立而岡崎に付、諸勢は屋萩・鵜うと等う・今村・牛田・八橋・池りうに陣之取、明けれは義元池りうに付給ふ。此以前より、くつ懸・成見・大高をは取てもちたれば、くつ懸には駿河衆入番有り﹂と記し、今川勢は二手に分れ、一つは鎌倉街道を北上して八橋に陣を取り、もう一つは今いま村・牛田を通って知立に入っていることがわかる。後者は慶長六年東海道伝馬の制の布かれた当時の道筋である。南北朝内乱期に二階堂泰行は足利尊氏に従い、北朝に味方して重しげ原はら庄などの地頭職に任命された。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報