稲葉正休(読み)いなばまさやす

精選版 日本国語大辞典 「稲葉正休」の意味・読み・例文・類語

いなば‐まさやす【稲葉正休】

 

(一)
 

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「稲葉正休」の意味・わかりやすい解説

稲葉正休
いなばまさやす
(1640―1684)


()()1682238500012000841828()828()()()()

 

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朝日日本歴史人物事典 「稲葉正休」の解説

稲葉正休

 
1.8.28(1684.10.7)
17(1640)
2(1656)12,()50002(1674)1,,2(1682)317,28,120001(1684)828,,,,,,5,,,,,  
()
 

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改訂新版 世界大百科事典 「稲葉正休」の意味・わかりやすい解説

稲葉正休 (いなばまさやす)
生没年:1640-84(寛永17-貞享1)


1656500074821200084828

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「稲葉正休」の解説

稲葉正休 いなば-まさやす

1640-1684 江戸時代前期の大名。
寛永17年生まれ。稲葉正勝の甥(おい)。稲葉正成(まさなり)の孫。父正吉(まさよし)の遺領5000石を相続。書院番頭(ばんがしら),近習をへて,天和(てんな)2年若年寄。2度の加増をうけて1万2000石を領し,同年美濃(みの)(岐阜県)青野藩主となる。貞享(じょうきょう)元年8月28日,江戸城で大老堀田正俊(まさとし)を刺殺し,自身もその場で老中大久保忠朝(ただとも)らに殺された。45歳。絶家,廃藩。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「稲葉正休」の意味・わかりやすい解説

稲葉正休
いなばまさやす

 
[]17(1640).
[]1(1684).8.28. 
1 (1684) 8  

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旺文社日本史事典 三訂版 「稲葉正休」の解説

稲葉正休
いなばまさやす

1640〜84
江戸前期の譜代大名
美濃(岐阜県)青野藩主(1万2000石)。1682年若年寄となり,私怨から'84年江戸城中で従兄にあたる大老堀田正俊を刺殺したが,自分も同席の老中らに殺された。

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世界大百科事典(旧版)内の稲葉正休の言及

【堀田正俊】より

…綱吉の初政期〈天和の治〉には正俊の補佐の功はすこぶる大きいと認められるが,やがてその権勢が幕臣の反感をよび,また剛直な性格が綱吉に嫌悪されるようになったと伝えられる。84年8月28日父の従弟若年寄稲葉正休(まさやす)に城中で刺殺された。理由は正休の私怨か,正俊専権への公憤か不明。…

【大和川】より

…大和川を柏原の地点から西流させてただちに海に流下させたいとの地元の要望により,河内国河内郡今米村の中甚兵衛らが奔走して大和川付替え工事の請願を江戸幕府に提出した。1683年(天和3),幕命により稲葉正休(まさやす)らが河村瑞賢をともなって関係河川を視察したが,大坂市中の治水と舟運を重視する立場から大和川はんらんの原因は淀川河口にあるとして,瑞賢による84‐85年(貞享1‐2)の工事では淀川本流の浚渫(しゆんせつ)および新堀(安治川)の開削が行われ,大和川の分流計画は退けられた。しかし,10年余を経て,新田開発をともなう治水の見地が優先して新大和川の掘削が計画され,旧本流には用水路および舟運路としての機能を残し,旧川床および沼沢地を新田開発に当てることになった。…

※「稲葉正休」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」