関孝和(読み)セキタカカズ

デジタル大辞泉 「関孝和」の意味・読み・例文・類語

せき‐たかかず【関孝和】

 
16401708()()  

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精選版 日本国語大辞典 「関孝和」の意味・読み・例文・類語

せき‐たかかず【関孝和】

 

(一)
 

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「関孝和」の意味・わかりやすい解説

関孝和
せきたかかず
(1640ころ―1708)


()()()()23()駿()3()()()6()()170415()西()()250()3001706()51024()宿

 ()20()()()()1674()()1685

 (1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)n(11)(12)(13)()(14)(15)(16)(17)

 ()()()()



1981

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改訂新版 世界大百科事典 「関孝和」の意味・わかりやすい解説

関孝和 (せきたかかず)
生没年:1640ころ-1708(寛永17ころ-宝永5)

江戸中期の数学者。江戸時代の高等数学は関孝和から始まる。通称は新助,字は子豹,自由亭と号した。幕臣内山七兵衛永明の第2子で,関家の養子となる。甲府宰相徳川綱重およびその子綱豊に仕え,勘定吟味役となる。1704年(宝永1)に綱豊が5代将軍徳川綱吉の世子となり,綱豊に従って江戸城に入る。御納戸組頭となり,250俵十人扶持,後に300俵となる。06年11月に致仕し,小普請組に入る。東京新宿区浄輪寺の孝和の墓には,宝永5年10月24日卒となっている。法名は法行院宗達日新,幕末になり,法行院殿宗達日新大居士と改められた。関孝和は,《塵劫記》から始まる和算の興隆期に,それらの数学書を克明に研究して大成した。関の業績を列挙すると,(1)代数式の表し方とその計算法,(2)数字係数方程式のホーナーの解法の完成,(3)方程式の判別式や正負の根の存在条件,(4)ニュートンの近似解法,(5)極大極小論の端緒,(6)行列式の発見,(7)近似分数の見つけ方,(8)不定方程式の解法,(9)招差法の一般化,(10)ベルヌーイ数の発見および各種の級数,(11)正多角形に関する辺と,内接円・外接円の半径,対角線の関係式,(12)円理(円や球に関する計算),(13)ニュートンの補間法,(14)補外法,(15)パッポス=ギュルダンの方法,(16)方陣・円攢,(17)継子立て・目付字の理論,(18)天文・暦学に関する理論および計算,その他である。関の業績はあまりにも前代とかけ離れて高度であるため,西洋数学の影響があるのではないかと疑問視する学者もないではないが,その業績は,《塵劫記》以来進歩してきた数学を研究対象としていることは確かである。そのほか,元・明時代の中国数学書も研究している。出版された関の著書は,《古今算法記》の遺題の解答書である《発微算法》(1674)だけである。彼の没後,弟子の荒木村英は遺稿をまとめて《括要算法》(1712)を刊行した。《発微算法》は,中国の数学から脱皮して,文字係数の多元高次方程式を紙に書いて表す方法を発表したのである。しかも二つ以上の未知数を1個にする計算法,すなわち演段術を示したのである。関孝和の学習時代は,遺題継承による数学の研究が盛んになされたころで,関は《古今算法記》ばかりでなく,《算法闕疑抄(けつぎしよう)》や《算法勿憚改(ふつたんかい)》の遺題も解いている。また,《算俎》にある円周率の計算にも興味をもって,20歳前後に《規矩要明算法》をまとめている。後に円や球の研究を進めているのも《算俎》の影響と考えられる。また,関の学習時代には,算額が神社仏閣に盛んに奉納されるようになった時期で,関も胸をおどらせてそれらの算額の問題を研究したことであろう。関の業績は,弟子の建部賢弘や,京都から建部に呼ばれた中根元圭に受け継がれ,さらに進歩した。荒木村英の弟子松永良弼はこれら先人の仕事を,友人の久留島義太の協力を得て集大成し,後人に伝えた。関は後に算聖とまでいわれ,和算研究者はもちろん,現代数学者にも高い評価を受けている。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「関孝和」の解説

関孝和

没年:宝永5.10.24(1708.12.5)
生年:寛永17頃(1640)
江戸前期の和算家,暦算家。中国の数学に依存していた日本の数学を日本固有のものに高めた。故に日本独自の数学「和算」をいう場合,孝和以降の数学を指す場合が多い。通称は新助,字は子豹,号は自由亭。父の内山永明は徳川忠長に仕え,主家断絶のため上野国藤岡(藤岡市)に移住し,寛永16(1639)年江戸城の天主番(150石)となる。孝和は永明の次男で,藤岡もしくは江戸小石川で生まれたとされ,のち関五郎左衛門の養子となる。甲府の徳川綱重およびその子綱豊(のち家宣)に仕え,勘定吟味役として会計や検地の仕事に携わる。宝永1(1704)年綱豊は5代将軍綱吉の養子となり江戸城に入る。孝和も幕府直属の武士となり,御納戸組頭,250俵10人扶持,のち300俵となる。 その業績は,前代と隔絶しているが,西洋数学の影響はなく,中国の数学を敷衍し程度を高めたことと,当時未解決の問題を整理し解答を与え,大きな理論や定理にまとめたことである。列挙すると,代数式の表し方とその計算法,数字係数方程式のホーナーの解法の完成,方程式の判別式と正負の解の存在条件,ニュートンの近似解法,極大・極小論の端緒,行列式の発見,近似分数,不定方程式の解法,招差法の一般化,ベルヌーイ数の発見,正多角形に関する関係式,円に関する計算,ニュートンの補間法,パップス・ギュルダンの方法,捕外法,円錐曲線論の端緒,数学遊戯の研究などである。少年のころ,吉田光由の『塵劫記』で自習し大成したらしい。中国13世紀末の『算学啓蒙』や『楊輝算法』などを研究し,これにより代数方程式の作り方やその解き方,および不定方程式の研究を完成したと考えられる。 最初の研究発表は,沢口一之の『古今算法記』(1671)の遺題の解答をまとめ,代数方程式の作り方や整理の仕方を公表した『発微算法』(1674)である。この著書は一部の和算家から誤りがあると非難された。松田正則の『算法入門』(1681)による非難に対しては,関の弟子建部賢弘が『研幾算法』(1683)で反論し,さらに建部は『発微算法』を詳しく解説した『発微算法演段諺解』(1685)を出版した。これにより関の代数式についての研究は広く理解された。没後に弟子の荒木村英により,関の研究の一部が『括要算法』(1712)としてまとめられた。著作は少なくないが,世間では『発微算法』と弟子の書によって知られただけであった。しかし生存中から関の研究に対する評判は高く,また後継者が次々とすぐれた研究を発表したため関流の名は広く知られた。下平和夫 天文・暦法の面では当時は宣明暦の欠陥が問題となっており,斬新な暦法として「授時暦」が注目されていた。孝和は延宝8(1680)年『授時発明』,その翌年にはその計算に必要な『授時暦経立成之法』を著した。また『天文数学雑著』『関訂書』などの天文暦学に関する著書もある。渋川春海は授時暦を用いて貞享改暦に成功したが,そこに用いられている「弧背術」という数学の手法は理解できないと弟子の谷秦山に述べている。当時としては「弧背術」をはじめ『授時暦』に使われている数理をよく理解できたのは孝和のみであったろうといわれる。<著作>『関孝和全集』<参考文献>日本学士院編『明治前日本数学史』2巻

(内田正男)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「関孝和」の意味・わかりやすい解説

関孝和
せきたかかず

 
[]19(1642)
[]5(1708).10.24. 
 (3)  (6) 西 (1704)  ()  ( )  (1674)  (83)  (41712)   

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百科事典マイペディア 「関孝和」の意味・わかりやすい解説

関孝和【せきたかかず】

 
1674()1683
 

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「関孝和」の解説

関孝和
せきたかかず

1640?~1708.10.24

江戸前期の数学者。通称新助,号は自由亭。内山永明の次男。関五郎左衛門の養子。甲斐国甲府藩の徳川綱重とその子綱豊(6代将軍家宣)の家臣。甲府で勘定吟味役,江戸城で御納戸(おなんど)組頭を勤め,300俵を給される。独学で数学者になったという。1674年(延宝2)に沢口一之の「古今算法記」の遺題を解き,「発微(はつび)算法」を出版。ホーナーの方法,極値,近似解,不定方程式,級数,円,補間法,補外法,円錐曲線論,天文・暦のほか多数の研究がある。和算は関孝和から始まるとする研究者が多い。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「関孝和」の解説

関孝和 せき-たかかず

 
16401708 -,
17()(),,,,西(-)5102469()()  

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旺文社日本史事典 三訂版 「関孝和」の解説

関孝和
せきたかかず

1640?〜1708
江戸前期の和算家
上野 (こうずけ) (群馬県)の人。幕府御納戸組頭。生来,数学を得意とし,縦書の代数ともいうべき筆算法(点竄術 (てんざんじゆつ) )を発明。2変数文字方程式を解くための行列式,円弧の長さや円の面積,球の体積を求める円理を樹立した。主著に『発微 (はつび) 算法』など。『括要算法』は没後門人により出版されたが,355/113を円周率とする精密なもの。

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世界大百科事典(旧版)内の関孝和の言及

【遺題継承】より


(1659)100(1673)100(1674)(1671)15

【行列式】より


 16831690

【関流】より


使

【魔方陣】より


1,2n2n×n

【和算】より


(1)(2)1627(4)(3)743

 (718)

※「関孝和」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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