日本歴史地名大系 「館林市」の解説 館林市たてばやしし 面積:六〇・八三平方キロ 群馬県南東端に位置し、北境を渡良瀬川、南境を谷(や)田(た)川が東流する。市域ほぼ中央に城(じよう)沼、北西に多(た)々(た)良(ら)沼、南西に近(こん)藤(どう)沼があり、鶴(つる)生(う)田(だ)川・多々良川・矢(や)場(ば)川がいずれも東流する。北部と南部は渡良瀬・利根両川の沖積低地で、中央部は沖積台地。東は邑(おう)楽(ら)郡板(いた)倉(くら)町、西は同郡邑楽・千(ち)代(よ)田(だ)両町、南は同郡明(めい)和(わ)村・千代田町、北は栃木県佐(さ)野(の)・足(あし)利(かが)両市に接する。東端を東北自動車道が南北に走り、赤(あこ)生(う)田(だ)町には館林インターチェンジが設けられている。南から北西の太田市方面へ国道一二二号が抜け、市街地西方で邑楽郡大(おお)泉(いずみ)町・高崎市方面に向かう国道三五四号が分岐する。南から北へ東武伊勢崎線が通り、市中央の館林駅から東武佐野線・東武小泉線が分れる。﹁鎌倉大草紙﹂に応永二三年︵一四一六︶一一月二三日のこととして﹁館林﹂の地名がみえる。文書では文明三年︵一四七一︶五月一日の足利成氏書状︵高文書︶に﹁立林﹂とみえるのが早い。 〔原始〕旧石器時代の遺跡は高根の山神脇(たかねのさんじんわき)遺跡など邑楽・館林台地に沿う内陸古砂丘上にある。縄文時代早期の遺跡は大袋(おおふくろ)遺跡をはじめ城沼南岸の舌状台地上にまとまりをみせ、数は多く、現在確認されている市内の考古遺跡の半数以上を占める。前期では城沼中心から南へ茂林寺(もりんじ)沼・蛇(へび)沼、また北方の旧矢場川南岸へと広がり、中期には市内全域で遺跡が確認されるが、城沼周辺では減少する。後期は茂林寺沼・蛇沼を中心とした地域と旧矢場川流域に遺物があり、蛇沼遺跡は縄文前期から後期に及ぶ。晩期となるとわずかに城沼・茂林寺沼沿岸に遺物が確認されるだけである。弥生時代は蛇沼・城沼付近に遺物がいくつかみられるだけである。古墳はかつて六〇基を数えたといわれるが、現存するものは山王山(さんのうやま)古墳など六基にすぎない。〔古代・中世〕 邑楽郡に属し、﹁和名抄﹂にみえる同郡池(いき)田(た)郷が市域に比定される。市域の南端を東流する谷田川の名は﹁和名抄﹂邑楽郡八(や)田(た)郷の名残ともいわれる。市域の大部分は佐(さぬ)貫(き)庄に属していたらしい。応永二三年一一月に上杉禅秀の乱が起こると、翌二四年五月一三日舞木宮内丞は禅秀方に与同したことを悔み、武蔵入(いる)間(ま)川で禅秀の婿岩松満純を捕らえ、鎌倉へ送った︵鎌倉大日記︶。昭和四五年︵一九七〇︶館林城本丸跡より偶然出土した花崗岩製の高さ二〇センチ、幅・奥行とも二八センチほどの墓石は、表面右側に﹁応永廿四年五月﹂と刻まれ、地輪の刻銘にだけ朱が入っていた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「館林市」の意味・わかりやすい解説 館林〔市〕たてばやし 群馬県南東部,利根川と渡良瀬川に挟まれた洪積台地および沖積低地にある市。1954年館林町と郷谷村,大島村,赤羽村,六郷村,渡瀬村,三野谷村,多々良村の7村が合体して市制。中心市街地の館林は台地上にあり,室町時代末期に赤井氏が築城,江戸時代には城下町として発展。低地には城沼,多々良沼,近藤沼,茂林寺沼などの沼沢地が多く,干拓が進められている。古くから醤油の醸造,製粉,製麺,繊維工業が発達。近年は輸送,機械金属工業などが盛ん。農業は米作と野菜の促成栽培が行なわれる。市街地の近くにつつじが岡公園︵国指定名勝︶,分福茶釜で有名な茂林寺がある。東武鉄道が伊勢崎市,桐生市,栃木県佐野市などへ通じる。東部に東北自動車道のインターチェンジがあり,首都圏および東北地方への物資輸送に大きな役割を果たしている。面積 60.97km2。人口7万5309︵2020︶。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報