正しい字体が在るから、其の関聯で異体字が存在
できてゐる﹂と書きました。其れは上記の内容を踏まへた上での表現である事を理解して頂けると有難いと思ひます。以上が、﹁
正しい字體が
あるから異體字がある、といふのはどこから出てきた着想ですか。﹂に対する私の答です。 私は又、異体字の発生云々について論じてはをりません。﹁
それはあま
りに異體字の發生についてステレオタイプ過ぎではありませんか。﹂との事ですが、どのやうな経緯にせよ、正字が在るから其の関聯で異体字が存在すると云ふ図式に変りはありません。異体字の発生云々については、字源の研究なり、書体変遷の研究なり、印刷活字の研究なりの成果に譲る事にします。私の考へ方に間違ひが在ると言ふのであれば、もつと具体的に御指摘願ひます。
正字體をベー
スに、略字體を實裝するのなら、すつきりとした仕樣が出來る。﹂と書かれてゐます。理念としての文字コードは此の考へ方に全く同意する所ですし、其の路線に乗つて日本語の文字コードを根本から再構築するのも一つの方法です。略字や俗字などの実装は、必要な場面で必要な字形(グリフ)を呼出せるやうな仕組みを導入すれば、解決できない話ではありません。其れよりも正字の概念を疎かにした之迄の文字コードや漢字政策の在り方に誤りがあるのだと言へます。併し乍ら、問題は、現在迄の蓄積をどのやうに対処するべきか。"2004JIS"でさへ多少なりとも混乱が豫想されると言はれてゐる処に、其れ以上の混乱の発生が容易に豫想できる新たな文字コードの作成を行ふ事が現実に可能かどうかは、正直に難しい問題です。根柢的な部分を改変するのですから、相当レヴェルが高い改変になるのは容易に想像できると思ひます。 今回の"2004JIS(JIS X 0213:2004)"の場合は、168字の例示字体の変更はなされますが、之迄の"JIS X 0208"の規定を踏襲してゐます。ですので、"JIS X 0208"で作成された電子文書も異体字に拘る必要さへなければ何等問題なく其の侭の状態で"2004JIS"で作成された電子文書として活用できるのです。更に、例示字体は旧国語審議会が答申した﹁表外漢字字体表﹂の印刷標準字体に準拠してゐますので、一般的な印刷物としても十分利用可能な状態になつてゐます。其のやうな部分において私は正論と呼んでゐます。之迄の蓄積が生かされた上で、印刷標準字体と文字コードの例示字体との整合が行はれてゐると云ふ点では優れてゐると判断してゐます。 慾を言へば、正字から異体字の字形(グリフ)を呼出すやうな仕組みを豫め用意した上で、異体字が占めてゐる面区点位置を廃止して行くやうな方向に持つて行かれると有難いと思ひます。此の場合、出来上がつた文字コードには虫食ひが目立つと思ひますが、一定の期間を置けば其の虫食ひに改めて全く別の正字を埋める事が可能になると思ひます。其の際、各々の例示字体の字形も、﹁表外漢字字体表﹂の印刷標準字体に合せるやうに、有体に言へば正字体を復帰した上で改変して呉れれば全体的に統一が取れて宜しいと考へます。例へて言へば﹁飲﹂と﹁飮﹂のやうな食偏の形の違ひが全体としては﹁飮﹂の形のやうに統一された上で、必要に応じて文字毎にどの食偏を表示させたいのか選択できるやうになると云ふやうな感じです。﹁劍剣劔劒剱﹂(はつきり言つて無駄のオンパレード)も同様に扱ふ事が出来るでせう。基本となる面区点位置が固定されてゐれば、文字としての関聯性も電子文書自体として保持できます。
私の字体変更への考
えを示しておくと、﹁別に変更してもいいんじゃない﹂という立場であ
る。﹂と書かれてある事を見れば明白です。 彼は、まず﹁文字は正字︵正統的な文字︶に直すべきなのだ。それが日本語としての慣用なのだから﹂という前提に立っている。この時点で、すでにこれはただのイデオロギーだ。国語国字問題を思い出せばわかるように﹁正統﹂なんて概念は、すでに昭和前半にぼろぼろに崩れ去っている*2。 世の中には正統と聞くと過敏に反応する人々がゐるものです。私は別に正字体だけしか使つてはいけないと云ふやうな偏狭な﹁正格日本語信奉論者﹂ぢやありませんから、どんな漢字でも必要な場面で必要な漢字が使へれば其れだけでいいと考へます。唯、正統と云ふ概念は漢字の世界にも必要であると考へるものです。其の点は事前に確認しておきたいと思ひます。 先づ、日本語としての慣用の件ですが、現状の印刷物に絞つて話をすれば、根本に﹁常用漢字表﹂が制定されてあり、人名に限つては法務省制定の﹁漢字の表﹂があり、其れ以外の一部の漢字は旧国語審議会が答申した﹁表外漢字字体表﹂があります。之等が現在の日本で行はれてゐる日本語表記の慣用として認識しておいて誤りはないと判断します。で、今回の改変は、﹁表外漢字﹂の部分に係る話ですので、現在の印刷物に印刷されてある標準的な字体に例示字体を整合させた訣ですから、之を﹁イデオロギー﹂云々と評価するのは当らないと判断します。印刷物に使はれてゐる標準字体があるにも係らず、敢へて其れから外れた特殊な例示字体を採用してゐる文字コードを維持して行かうと考へるはうが或る種のイデオロギーに寄掛つてゐると思はれます。 次に、正統の概念が本当に崩れ去つてゐるのかと云ふ事ですが、﹁当用漢字﹂の制定で意図的に崩されてしまつたと云ふ点で同意します。併し乍ら全てが崩れ去つてゐる訣ではありません。戦前の印刷物は現在も多数現存してゐますし、﹁旧字体﹂との関聯で﹁新字体﹂が使用できるやうにされてある事を考へれば、﹁常用漢字﹂の表内漢字についても完全に崩されてしまつたと迄は言切れません。又、今回の論は、﹁表外漢字﹂についての話題ですから、内閣告示等で制定された経緯の無い文字と云ふ意味で、印刷字体は戦前からの字体が保存されてゐるのが現状である筈です。さう考へれば、まあ、表面的には漢字の世界から正統の概念が破壊されてゐるやうに見えるのは解るのですが、謂はば地下水脈として正統の概念は生き永らへてゐると私には感じるのです。そして、いつの日か其の地下水脈が日の目を浴びる日が来る事を願ふものであります。
木簡や竹簡に當時の何とか筆︵失念︶で書かれたものは篆文となり﹂とありますが、現在では石碑や印璽に残された篆文が殆どではないでせうか。当然、木簡や竹簡に書いた物も在つたとは思ひます。 ﹁
技術的制約がなくなれば、﹁漢字のイデア﹂に基いて考へれば四畫草
冠を使ふべきで、實際、台灣では明朝體でも四畫草冠が使はれてゐまし
た。﹂、臺湾には行つた事が無いので四劃草冠が実際に使はれてゐるのは知りませんでした。日本では、戦前の活字字形を見るに、漢和辞典の見出し字以外には四劃草冠は見る事がありませんでした。例へば、﹃字源﹄を纏めた簡野道明さんの出版に依る﹃論語集註﹄が手元に在るのですが、﹁蓋﹂﹁莫﹂﹁藻﹂﹁舊﹂﹁若﹂﹁菜﹂﹁蔡﹂﹁葬﹂など、外にも在ると思ふのですが、皆、三劃草冠で印刷されてゐます。其れに、草冠の元の形は﹁艸﹂ですから、仮令四劃と雖も其の状態で既に字形が訛つてゐる事になります。四劃草冠の使用を阻む訣ではありませんが、活字印刷の実態から考へれば三劃草冠に軍配が上がります。因みに旧国語審議会の答申﹃表外漢字字体表﹄でも四劃草冠は漢和辞典に用ゐられてゐるとの見解を示してゐます。 戰後の國語國字改革は間違つたものを強制したから惡いのであつて、強制することそのものは惡いことではない、といふのが私の考へです。 慥かに﹁間違つたものを強制した﹂のは拙いと思ひます。根拠が薄弱だから﹁強制﹂と云ふ手段に出る訣です。強制するしないは別として、正しいと認められるものを根拠を提示できる状態にしておくべきだと思つてゐます。漢字の場合の根拠を何処に置くかですが、正字として認められる字形以外に、書体の違ひや変遷も考慮する必要があります。楷書には楷書としての字形があります。楷書で正字に似せて書く事も可能ですが、矢張り本来の楷書の字形で書くのが本筋だと思ひます。さう云ふ点も戦後の国語改革で有耶無耶になつてしまつたと言へます。 正字は、表語文字に対する意味と概念との対応が的確になされてゐる必要がある為、其の字源にも注意を払ふのは当然として、書体の違ひでは、各々の書体でどのやうに書かれて来たのかを明確にして適切な字形で表現される事が肝要なのだと考へます。詰り、漢字は﹁常用漢字﹂しか使へない訣でもありませんが、正字しか認めないとなると其れも又違ふのではないかと思ふのです。世間には様々な字体や書体の漢字が在るのだから、意味概念と云ふ一本の筋を通す為に正字が必要なのだと考へます。
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