フェミニズムにおけるポルノグラフィ否定論と肯定論の意外な近さ
2008年6月26日 - 9:33 AM | |
先日、反ポルノグラフィ論者で男性問題研究者のロバート・ジェンセン氏︵テキサス大学︶が、ポルノグラフィと男性性の問題について書いた近著﹃Getting Off: Pornography and the End of Masculinity﹄に関連した講演のためポートランドを訪れたので、積極的なポルノ肯定論者とまではいかないものの﹁反・反ポルノ論﹂程度にはこの論争にかかわってきたわたしも参加し、じっくり話を聞いてきた。その結果感じたのは、肯定派・否定派のどちらの側でも、相手の意見をきちんと聞く余裕のある人は、かなりの部分同意できるというか、同意できない部分に関しても﹁自分が絶対正しくて、相手は絶対間違っている﹂みたいに決めつけずに済むのではないかということだった。詳しく報告してみたい。
そのまえに、ジェンセンとかれの本について一応。かれはもちろん、宗教的・性道徳的な立場からの反ポルノ論者ではなく、アンドレア・ドウォーキン/キャサリン・マッキノン系のラディカルフェミニズムに影響を受けた論者だ。すなわち、ポルノそのものが女性に対して暴力的あるいは差別的であり、あるいはそうした価値観を広めるので反対するという立場。そういう﹁男性フェミニスト﹂はかれ以外にも結構いるのだけれど、ジェンセンはこれまでわたしが見てきた多くの﹁男性フェミニスト﹂に比べると謙虚というかはっきり言うと脱力系なんだけれど、基本的な姿勢として信頼できると感じた。
わたしがここで言う﹁男性フェミニスト﹂というのは、フェミニズムに共感する一般男性のことではなく、本を書いたり講演などをして目立つ活動をしている人のこと。そういう人の中には、口先だけフェミニズム支持みたいなことを言っておきながら、行動においてやたらと物事を仕切ろうとしたり、女性にフェミニズムはこうあるべきだとレクチャーしたがったり、なんでも自分の功績にしようとしたり︵つまり、女性フェミニストの功績を横取りしている︶、女性運動の指導的な立場の人たち︵多くは白人で中流階層出身︶に取り入って非白人の女性とか貧困層の女性をないがしろにしたり…という困った人が多い。
それに比べて、ジェンセンは﹁ぼくの本なんて読まなくていい、ドウォーキンを読んでくれ﹂﹁ぼくが書いた本には何も新しい視点はない、みんな女性や非白人の人たちに教えてもらったことだ﹂といった発言を繰り返すばかりか、研究対象としてポルノグラフィを選んだ動機も﹁ぼくはあんまり頭が良くないから、普通の文学や映像に隠された細かいメッセージやイデオロギーを読み出すのは難しすぎるので、ポルノグラフィみたいに女性蔑視や人種差別がはっきり映し出されたものを分析するのが適役だと思った﹂と言うくらいで、どこまで自虐ギャグなのか分からないのだけれど脱力させられてしまう。でも、最後の発言はともかく、ジェンダーや人種についての議論において常に白人男性たる自分ではなく女性や非白人の論者の主張を中心に持ってこようとする姿勢は評価できる。
ジェンセンの著書﹃Getting Off﹄だが、ポルノグラフィを通して現代社会における男性性について論じた内容で、反ポルノの立場に立つのは確かだけれども、単純に﹁ポルノは女性に対して抑圧的なので反対﹂というだけではない。かれが取り上げるのは、ポルノグラフィが女性蔑視的かつ人種差別的な覇権的男性性の構築にどう関わるかという問題であり、ポルノは社会的権力を反映するのではなくそれを生み出すのだとするマッキノンの理論の明らかな影響下にある。ポルノ肯定派あるいは検閲反対派のフェミニストも、現実の社会においてポルノが主要な消費者たる男性にどのような影響を与えているか、という議論であれば、関心を持たざるを得ないのではないだろうか。
ジェンセンは、フェミニズムにおけるポルノ否定派と肯定派の論争について聞かれて、﹁正直言って、ぼくはポルノ肯定論はよく分からない﹂と答えたうえで、ポルノ規制反対論まではなんとか理解できる、という。すなわち、いくらポルノが有害だからといって短絡的に政府による規制を認めてしまえば、それがどのように実施されるか分かったものではない、という意見であればよく分かるし、自分も︵一定の規制は支持するけれども︶検閲には反対だ、と言う。しかし、一部のフェミニストがどうして︵単に規制に反対するだけでなく、積極的に︶ポルノを肯定しようとするのか、かれには理解できないらしい。
ジェンセンのもとには、たまにポルノ肯定派のフェミニストから﹁この映画を見ろ、この小説を読め﹂と、女性蔑視的でも人種差別的でもない﹁優れた﹂ポルノの存在を示すメールが届くという。たしかに、毎年どれだけのポルノ作品が制作されるか考えれば、そのうちごく一部にフェミニストが肯定するような優れた作品があってもおかしくはないだろう、とかれは認める。しかし、全体から見てごく僅かに過ぎない﹁優れた作品﹂に注目することにどれだけ意味があるのか、とかれは問いかける。かれが研究するのは、市場において大量に販売・消費される一般的なポルノグラフィであって、ごく一部の人たちによって鑑賞され批評されるアート作品ではない。現代社会における覇権的男性性の構築を分析するには、実際に多数の男性がマスターベーションに使用しているものを研究対象としなくては意味がないではないか、というのがかれの言い分だ。
かれの言うように﹁一般的なポルノグラフィ﹂に限った話をするのであれば、そこにさまざまな社会的問題が凝縮されていることに意義を唱えるフェミニストはーー﹁ポルノ肯定派﹂も含めーーあまりいないだろう。明確に女性蔑視的・人種差別的なポルノはもちろん、ひとつひとつの作品を見れば問題がないように見えるものであっても、作品群を総体として見たとき、そこに性別や人種などを通した特定の権力関係︵たとえば誰が見られる対象で、誰がそれを見る側か、など︶を作り出し、特定の身体や体型、あるいはジェンダー的記号を特権化する視線のパターンを見出すことは容易だ。ポルノ肯定論者で映像批評家のリンダ・ウィリアムズは、﹁一般的ポルノグラフィ﹂に人種差別的な表現が描き込まれていることを認めたうえで、それは時代錯誤なパロディとして消費されているので差別を強化しない、と主張していて、ある作品の意味はその作品に内在しているという思い込みを覆してくれる鋭い意見だと思うのだけれど、この場合は現実問題として一般的なポルノ消費者がそんなアクロバティックな﹁鑑賞﹂の作法を実践しているとはちょっと思えない。
もし﹁ポルノ肯定論﹂を、現在の社会における﹁一般的なポルノグラフィ﹂の全てをありのまま全部肯定するという意味で解釈するなら、たしかにそうした立場に立つ﹁フェミニスト﹂の真意は理解不可能だ。しかし実際には、﹁ポルノ肯定派﹂フェミニストの大多数はそういう考えの持ち主ではないだろう。では﹁肯定派﹂と﹁否定派﹂で何が違うのかというと、﹁一般的なポルノグラフィ﹂に様々な問題があることを前提としたうえで、どのように介入・対抗するかという部分がまず違うだろう。
ジェンセンを含めた﹁反ポルノ﹂フェミニストたちは、必要とされる規制の一例として、かつてキャサリン・マッキノンらの働きかけによりインディアナポリスで採択された︵そして、その後違憲判決が出て執行停止された︶条例を挙げる。その内容は、ポルノによって差別や暴力の直接的な被害を受けた人が、ポルノを出版した企業や個人に対して民事裁判を起こすことができるというものだ。この﹁直接﹂の﹁被害﹂には、例えばあるポルノを見た男性が、家に帰ってきて妻にポルノと同じような性行為を強要するなどが含まれる。かれらは、自分たちは検閲を主張しているわけではない、と前置きしたうえで、名誉毀損や脅迫の例から分かる通り言論と行為のあいだにははっきりした境界はなく、ポルノグラフィは︵言論の自由が適用される︶表現としてではなく、暴力的・差別的な行為としてその法的責任を問われるべきだと主張する。
しかし、もしポルノが本当に直接暴力行為の原因となるのであればーーたとえば、ポルノ作品の中で実在の人物をレイプするシーンが描写され、同じことを現実に実行しろと消費者に示唆するような内容のポルノがあればーー現行法で十分に対処可能だ。新しい条例って規制しろという主張は、つまり民事裁判において原告が負う立証責任の基準を大幅に下げろと言っていることになる。その論理を突き詰めると、影響はポルノだけに限られないはずだ。ポルノ以外の文学や映画も、ほとんど全ての作品について︵暴力的あるいは差別的な内容があるとして︶制作者が民事裁判を起こされる危険を負うことになり、政府の検閲以上に言論の自由を萎縮させる危険がある。もしマッキノンの本を読んだ読者の一人がポルノを憎むあまりポルノ監督を殺害したら、あるいはポルノ販売店に放火でもしたら、彼女はそれに責任を取れるというのだろうか。
まぁそれは極端な話だけれども、ポルノ規制が現実にもたらす結果はある意味それより深刻だ。すなわち、上で書いたようにあらゆる言論が萎縮することはないかもしれないけれども、社会の主流が﹁危険﹂とみなす特定の言論が萎縮するということが考えられる。ポルノで言えば、﹁反ポルノ派﹂が問題とするような差別的なポルノはおそらくあまり影響を受けず、同性愛や異性装を描いた作品など﹁クィアな﹂表現が規制を受けるだろう。あるいは、性教育や妊娠中絶についての正しい情報が規制を受けたりするかもしれない。反ポルノ派のフェミニストたちは、自分たちの考える基準の通りに規制が実施されると思い込まない方がいい。
まとめると、ある特定のポルノ作品が特定の暴力や犯罪行為の直接の原因となるというような因果関係は、よほど特殊な例でないとありえない。だから民事裁判を通して特定のポルノ制作者の責任を問うためには、表現物に対する法的責任の基準を大幅に変えなければならないし、そうすると今度はポルノに限らず何かを表現することの法的責任が予測不可能なまでに大きくなるため、言論の自由が大幅に後退してしまう。けれども、現実に生産・消費される﹁一般的な﹂ポルノグラフィの作品群が、総体として差別的あるいは暴力的な覇権的男性性の構築を支えていることもまた、フェミニストにとって無視できない問題だ。言論の自由を守ることが、現状をそのまま肯定することになってしまってはいけないはず。
ここで参考になるのは、差別的な表現一般と言論の自由をめぐる、米国的﹁言論の自由﹂支持派の主張だ。すなわち、差別的な表現を検閲や規制によって押さえ込もうとするのではなく、対抗言論を掲げ議論を通してそれを言論の自由市場から駆逐しようという考え方だ。ポルノグラフィにおいても、差別的なポルノは検閲や規制によって押さえ込むのではなく、より良いポルノを作り広めることによって対抗すべきだ、という論理が通用するのではないか。ここには、実際にそういうポルノを作ることだけでなく、ウィリアムズがやろうとしているように既存のポルノを新しく﹁読み替える﹂作業もーーいまのところ、あまり成功しているとは思えないけれどーー含まれるかもしれない。
その意味でおもしろいのは、カナダのトロントにある女性向けセックスグッズ専門店 Good for Her が毎年開催している﹁フェミニスト・ポルノ賞 feminist porn awards﹂だ。このイベントでは、その年発売されたさまざまなポルノ作品の中から、フェミニストとして肯定できる作品を選んで表彰している。この賞の対象となるには、次の3つの条件のうち最低でも2つを満たさなければいけない。まず第一に、制作のリードを女性が握っていること。第二に、女性にとって本当に快感なセックスを描いていること。第三に、ジェンダーや人種の表現において新しい可能性を切り開いていること。もちろんそれらの条件を満たしたうえで、作品として優れていると評価されたものが受賞することになる。
もちろん、このような賞は世間にほとんど認知されていないし、そこで表彰される作品は一般的なポルノ作品とは言い難いだろう。しかし、既存のポルノにおける女性蔑視や差別表現にうんざりしている消費者に﹁良いポルノ﹂を紹介するとともに、制作者がそういった作品を作るよう動機づけられるような新たな市場を作り出す試みとして、十分評価に値するだろう。︵受賞作品はこちらから購入できるので、興味のある方はどうぞ。︶
このように見ると、ポルノ反対派フェミニストとポルノ肯定派フェミニストは激しくいがみ合っているように見えて、実はかなりの部分で認識を共有できるのではないか。すなわち、少なくとも﹁現状の、一般的なポルノグラフィ﹂にさまざまな問題があることはーーその他の主要メディアにおいて女性蔑視的な表現や覇権的男性性の賞揚が見られるのと同様に、あるいはより露骨にーーどちらの陣営も同意したうえで、どのように対処するかで意見が分かれることになる。
さらに言えば、ポルノは規制すべきだと主張する人も政府による規制の弊害を懸念する声は理解できるだろうし、﹁より良いポルノ﹂による対抗を主張する人もそれが短期的にはあまり効果を期待できないことは認めるはず。それを双方が了解しあえばそんなに激しく言い争うこともないと思うのだけれど、どうしてこんな問題がフェミニズムを二分する大きな論争になるのか、それがわたしには分からない。
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︵この記事は、メールマガジン α-Synodos︵アルファ・シノドス︶第5号︵6月1日発行︶に掲載されたものです。編集部の了承を得て、全文公開しました。この記事が気に入った人は、是非α-Synodos を購読してあげてください。気に入らなかった人も、この記事だけでα-Synodos を判断するのは編集長のちきりんがかわいそうだからやめてあげてね。︶
2008/06/28 - 05:02:14 -
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