合衆国を吹き荒れる#BlackLivesMatterの嵐は、けっして他人事ではない。現代社会がコロンブス以降のグローバル化の果に成立していることを思えば、そのなかで植民地支配の歴史と人種差別の歴史はすべての人々の生活に分かちがたく絡まり合っているといえる。だから、合衆国に依然として残る人種差別の問題は、世界にすむすべての人々の問題でもある。
ということはなにも私が言うまでもないことなのだが、この記事のタイトルを見て﹁?﹂となった。いや、誤訳じゃない。これはこれで正しいのだけれど、それでいいのか?と。
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﹁黒人の命は大事﹂、ホワイトハウス前に巨大ペイント 米ワシントン - BBCニュース
議論があるにしても、﹁black﹂がかつてアフリカ大陸から暴力で連行された人々にルーツを持ち、一部その他の人々も含みながら現在も合衆国で差別されている人々を表す言葉であることは間違いない。そしてblackという言葉がかつて差別的に使用された経緯があるにせよ、その上でなおBlack is beautiful. と価値を逆転させる闘争なども経て、現在はポジティブにも中立にも使用されるようになっていることもまた事実だろう。その翻訳が適当なのかどうかにも議論はあるが、﹁黒人﹂も、かつて差別的に使用されていたことは事実だが、現代ではそこに新たな意味を加えられているのだと主張してもかまわない。だから﹁黒人の﹂という部分は、とりあえず批判するつもりはない。翻訳を業としてきた者として気になるのは、livesとmatterだ。
もちろん、livesはlifeの複数形であり、今回、無残にも警官に奪われた生命を含め、差別によって奪われてきた数多くの生命を表現内に含むことは間違いない。matterは、この場合は動詞であり、﹁重要である﹂という意味である。だから﹁黒人の命は大事﹂は、誤訳ではない。けれど、適切かどうかということで疑問が残る。あまりにも削ぎ落としてしまった部分が大きいのだ。
これは中高生に英語を教えるときの定番ネタなのだが、英和辞書をひくと概ねlifeには3つの意味が掲載されている。詳しい辞書だともっと多くの意味が載っているが、それらも概ね3つの概念から派生したものとして理解できる。その3つとは、﹁生命﹂﹁生活﹂﹁生涯﹂だ。日本語では、これら3つは独立している。だから、英文中にlifeが出てきて﹁日本語で表しなさい﹂という問題になったら︵昔のように﹁和訳しなさい﹂という設問は最近は流行らなくなった︶、どの概念が当てはまるかをよく考えて訳さなければならない。ここまでは、学校の授業でもやることだろう。
私はもう一歩踏み込む。日本語と英語では、ひとつの単語の表現する守備範囲がちがうのが普通だ。だから、ひとつの単語が別の単語に一対一対応することはめったにない︵たまにはあるし、学術用語なんかだと強制的に対応させているが、それはまた別の話だ︶。だから、lifeに﹁生命﹂﹁生活﹂﹁生涯﹂の3つの意味があると捉えるのは誤っている。そうではなく、lifeという単語は、1つの単語で日本語のこの3つの意味のすべてをカバーするような概念を表現しているのだと理解すべきだ。たとえば、いま、目の隅になにか小さく動くものが見えたとしよう。よく見ると蜘蛛が一匹、机の上を這っている。こんなふうに動くものは﹁生命﹂だろう。その蜘蛛は動いてなにをしているのかといえば、﹁生活﹂をしている。その生活の様子を最初から最後まで追いかければ、それは蜘蛛の﹁生涯﹂を見たことになる。つまり、lifeという単語は、生命体を、その時間軸、空間軸まで展開して把握した概念だ。本来3つに分解してしまえるものではない。けれど、文脈によってその本質的な部分︵生命︶が重要になる場合もあれば、空間・時間︵短期︶的な展開︵生活︶が重要になる場合もあれば、時間︵長期︶的な展開︵生涯︶が重要になる場合もある。それぞれの文脈によって訳し分けることで、日本語に移し替えることができる。けれど、それはlifeをそのまま移し替えたのではない。
こんな話を、もっと噛み砕いて生徒にする。なんでこんなマニアックなところまで踏み込むかと言うと、そもそも語学教育の目的のひとつが言語を相対的、客観的に見る態度を涵養することにあるからだ。おっと、こっちに踏み込むと長いからこれはこのぐらいで置いておこう。ともかくも、多くの単語がそうであるなかで、特にlifeは典型的に日本語とイコールで結びつけにくい概念だ。
さて、BlackLivesMatterの文脈では、lifeはもちろん一義的には﹁生命﹂であるのだけれど、それは日常的に差別される﹁生活﹂であることも劣らず重要だ。そしてその毎日の生活の積み重ねで成り立つ﹁生涯﹂であることも重要だ。たとえば生涯賃金の格差であるとか、それだってlifeで語られる。つまり、ここでのlifeは、大まかに分けた3つの概念のすべてを含むものである。
matterの方はどうか。これは﹁重要である﹂という概念とそれほど大きく守備範囲は外れない。ただ、この文脈であえてmatterを使ったのは、このmatterが︵相当な部分は無意識に︶否定形で用いられてきた歴史があるからだろう。It doesn't matter. は、﹁たいしたこっちゃない﹂という感じで日常的に用いられる。そりゃ警官の横暴で一市民が死んだのは事件かもしれないが、世界情勢や経済情勢に比べたら﹁どうってことないじゃないの﹂みたいな文脈で否定形で用いられる。それをひっくり返して、﹁いや、それこそが現代社会の根本的な問題なんだ﹂と主張するためにあえて用いられている単語のように思える。その場合、たしかに﹁大事﹂なのだけど、なんだかそれでは軽すぎるような気がする。
特に、﹁命が大事﹂と対にして用いると、﹁え?﹂と思うのだ。そりゃあ命は大事だろう。いまさら言うことか?みたいに感じられてしまう。そういう意味で、この翻訳はどうなんだろう?
とはいいながら、じゃあどう訳すと言われたら、私にも名案はない。そういう案件が来なかったことにホッと胸をなでおろしながら、こんな文句をつけるぐらいだ。訳すのが気が進まないから、#BlackLivesMatterと、ハッシュタグ付きで逃げるんだろうな、きっと。
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︻追記︼
もうちょっとマニアックな話をすると、matterが動詞である一方で﹁大事﹂が形容動詞の語幹であるというところも、文の与えるイメージを変えてしまっている。ま、長くなるからこの辺の話はまた別の機会にしよう。