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●No.414 発掘が語る福岡の歴史
No.414
企画展示室4
平成25年1月5日(土) ~
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国宝金印「漢委奴国王」 |
福岡の北に広がる玄界灘は朝鮮半島に接し、そして中国大陸につながっています。このため福岡は大陸文化との最初の接点という役割を果たしてきました。今回の展示ではそのような対外交流を示す遺物を中心に、発掘で出土した遺構・遺物から福岡の歴史をたどります。ここでは各時代の特徴的な遺跡・遺物を紹介します。
旧石器時代
福岡に残る人の痕跡は、今から3万年をさかのぼり、後期旧石器時代からたどることができます。この時代は最終氷期と呼ばれる寒冷な季候で動物・植物も現在とは異なり、違った風景が見られたはずです。人々は獲物を追って移動生活を送っていました。そのなかでも約2万年前には最も寒冷な時期を迎え、現在より平均気温が約7度低かったと言われています。そして海水面は100m以上低く、玄界灘には陸地が広がっていたと考えられています。朝鮮半島との距離はいっそう狭まり、比較的容易に渡ることができそうです。
この頃に海峡を渡って伝わったと考えられる遺物が﹁剥片尖頭器︵はくへんせんとうき︶﹂と呼ばれる槍の先に付ける石器です。この石器は朝鮮半島と九州を中心に出土し、当時の人の行き来を示しています。それ以前の九州では小型の石槍︵やり︶を使っていましたが、この剥片尖頭器以降は大型化します。ナウマン象などの絶滅した大型の獲物を追っていたのではないかとも言われています。早良区有田︵ありた︶遺跡で出土した剥片尖頭器はいち早く半島から伝わったものと考えられ、他にも博多区久保園︵くぼぞの︶遺跡などで出土しています。当時の福岡は、標高100mほどの海からは遠く離れた土地でした。
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剥片尖頭器(有田遺跡群) |
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石皿とドングリ |
縄文時代
約1万3千年前、季候は次第に温暖化し土器の使用が始まります。縄文時代の始まりです。市内では約1万800年前の土器が西区大原︵おおばる︶D遺跡で出土しています。温暖化にともなって海水面も上がってきます。約6千年前には最も海面が上昇し縄文海進と呼ばれています。玄界灘、博多湾が現れ、現在の福岡に近い地勢となりました。
縄文時代の遺跡で最も多く出土する遺物は土器と石鏃︵せきぞく︶です。石鏃は弓矢の矢尻で縄文時代が始まってしばらくして出現しました。鹿やイノシシなどを捕っていたと考えられています。また、温暖化で森林相が変わりドングリなどの堅果類を食料にすることが多くなったようです。南区野多目︵のため︶遺跡では貯蔵用の穴から約4千年前のドングリが出土しています。通常、植物などの有機物は腐れてしまいますが、水漬けの状態が保たれたため奇跡的に残っていました。
弥生時代
約2千400年前には朝鮮半島から稲作文化が伝わり、人々の暮らしが変わります。大きな時代の転機を迎えます。この半島からの新しい文化の流はいち早く玄界灘沿岸に伝わります。農耕社会である弥生時代の始まりです。福岡平野では博多区那珂遺跡︵なかいせき︶や板付︵いたづけ︶遺跡に環濠︵かんごう︶集落が出現し、深い溝に囲まれた農村の姿が現れました。土地に大きく手を加えることも弥生時代から顕著になります。また雑餉隈︵ざっしょのくま︶遺跡で出土した木棺墓︵もっかんぼ︶はやはり朝鮮半島に見られる墓で、きれいに磨かれた石剣、磨製石鏃、壺が副葬されていました。いずれも半島系の遺物です。
これ以降、弥生時代には次々に新しい文化が渡ってきます。
西区の吉武高木︵よしたけたかぎ︶遺跡は飯盛︵いいもり︶山の麓に広がる田園地帯にあります。1985年2月、甕棺︵かめかん︶、木棺墓︵もっかんぼ︶から副葬品が次々と出土し、緊張した発掘現場では3号木棺墓と呼ばれる墓が調査されていました。そして深さ80㎝ほどの底近く、直径11.2㎝の銅鏡が出土しました。朝鮮半島で発達した銅鏡である多鈕細文鏡︵たちゅうさいもんきょう︶です。3号木棺墓からは他にも朝鮮半島系の銅剣︵どうけん︶、銅矛︵どうほこ︶、銅戈︵どうか︶に加えて翡翠︵ひすい︶製勾玉︵まがたま︶、硬玉︵こうぎょく︶製管玉︵くだたま︶といった副葬品が集中して出土し、地域を治める首長の墓と考えられています。農耕が伝わってからの社会変化を墓の出土品からうかがうことができます。
1983年、同じ吉武遺跡の北寄りの樋渡︵ひわたし︶地区では墳丘墓︵ふんきゅうぼ︶と呼ばれるマウンド上に築かれた墓地が見つかりました。高木遺跡の3号木棺墓より100年以上後の紀元前1世紀の墓です。この墳丘墓の62号甕棺からは﹁重圏文星雲鏡︵じゅうけんもんせいうんきょう︶﹂と呼ばれる銅鏡と鉄製の大刀が出土しています。銅鏡は中国大陸の前漢の鏡で12個の漢字が浮き彫りされています。この時代には朝鮮半島に設置された楽浪郡︵らくろうぐん︶を通じて中国からの文物が伝わるようになりました。同じ時期、春日市の須玖岡本︵すぐおかもと︶遺跡、糸島市の三雲南小路︵みくもみなみしょうじ︶遺跡の甕棺からは30面を越える前漢鏡︵ぜんかんきょう︶などの副葬品が出土し、それぞれ奴国︵なこく︶、伊都国︵いとこく︶の王墓と考えられています。この時期の前漢鏡、鉄器などの漢文化の遺物は北部九州に集中して出土しています。
漢との関わりは﹃漢書﹄地理志の﹁歳事︵さいじ︶を以て来たり﹂という記事からも、倭︵わ︶︵日本︶からの使いが頻繁に楽浪郡︵らくろうぐん︶を訪れていた事をうかがうことができます。奴国を中心とした倭人︵わじん︶たちは中国の状勢を注意深くうかがっていたようです。そして西暦57年、後漢︵ごかん︶の光武帝︵こうぶてい︶が中国の統一を成し遂げた翌年というタイミングに、倭奴国王が使いを送り光武帝から﹁印綬︵じゅ︶﹂を受けたことが﹃後漢書﹄に記載されています。そしてこの﹁印﹂が1784年の江戸時代に志賀島︵しかのしま︶で発見された金印﹁漢委奴国王﹂と考えられています。金印は倭の外交を最もよく示す物証であり、倭が国際社会に組み込まれていく過程を語っています。こうした歴史の動きが福岡の地を舞台に繰り広げられていたのです。
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雑餉隈遺跡木棺墓出土遺物 |
吉武高木3号木棺墓出土遺物 |
重圏文星雲鏡(吉武樋渡遺跡) |
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