2019年版「八つ墓村」の恋模様
2019年版「八つ墓村」の直前評価を見ていて気になることがあった。
「同作に欠かせない『田舎にやってきた若者・辰弥と地元の未亡人・美也子』の『濃密な恋仲』」という、おかしな認識が流布していたのである。
これは、あくまで1977〜1991年版(渥美清が金田一の映画および古谷一行が金田一のテレビドラマ2作)での設定である。
「原作重視」の立場を採るファンからは強く非難されている部分であり、「同作に欠かせない」ものなどではない。
やはり、金田一ブームを担った作品群の影響力というのは強いということだろう。
しかも、3作が共通して採用している原作改変なのだから。
事実関係を整理しておこう。
辰弥は誰と恋仲になるか?
原作通り典子 | 1951年版(片岡千恵蔵)1971年版(銀河ドラマ) |
美也子に懸想するが結局典子 | 2019年版(吉岡秀隆) |
美也子 | 1977年版(渥美清)1978年版(古谷一行)1991年版(古谷一行) |
特に無し | 1969年版(金内吉男)1995年版(片岡鶴太郎)1996年版(豊川悦司)2004年版(稲垣吾郎) |
美也子の想い人は?
原作通り慎太郎 | 1971年版(銀河ドラマ)1996年版(豊川悦司)2004年版(稲垣吾郎) |
慎太郎を想いつつ辰弥も篭絡 | 2019年版(吉岡秀隆) |
辰弥に本気で懸想する | 1977年版(渥美清)1978年版(古谷一行)1991年版(古谷一行) |
亡夫を想い続けている | 1995年版(片岡鶴太郎) |
特に無し | 1951年版(片岡千恵蔵)1969年版(金内吉男) |
つまり、今回の2019年版は﹁原作通りの典子﹂と﹁1977年版で造形された美也子﹂とを両立させるという、意欲的︵=無謀︶な設定を試みた作品と評価することもできる。
美也子と慎太郎の関係
2019年版の直前評価で“濃密な恋仲”云々という認識が広がったのは﹁配役が真木よう子﹂ということからの推察ということもあるだろう。
これはある意味で当っていた。
﹁慎太郎を本命としつつ、完全に手段と割り切った色仕掛けとして辰弥に近づき、しかもいずれ殺害するつもりだった﹂という、相当に﹁イヤな女﹂という設定だったからである。
そして、この設定によって﹁典子と美也子の両立﹂が可能になったわけである。
いずれにしても1996年版以降﹁自信喪失状態の里村慎太郎と結婚したい美也子が田治見家の財産を継がせようとする﹂という犯行動機を原作通りとする流れが定着しつつあり、2019年版もこの流れに乗っていたわけである。
ちなみに1969年版︵金内吉男︶は美也子自身に、1977年版︵渥美清︶は美也子の義父に、各々優先順位の低い相続権がある家族関係に変更されており、1978〜1995年版は田治見家への復讐が犯行動機である。
ちなみに、美也子が辰弥に本気になる3作のうち、1977年版︵渥美清︶は里村兄妹が登場しないので、それはそれなりに話がスッキリしている。
1991年版︵古谷一行2時間ドラマ︶では慎太郎が﹁本家に嫌われているから﹂という﹁敵の敵は味方﹂という理屈で財産が行くように画策するという設定で、まあ許容範囲だろう。
問題は1978年版︵古谷一行連続ドラマ︶で、慎太郎が﹁ストーリーのうえで何の役割を負っているのか全く不明﹂なまま殺害されてしまうという謎の設定になっていて、これだけでも失敗作と評価できる失策だと思う。
典子の存在
1977〜1991年版の改変を特に強く非難するのは﹁里村典子のファン﹂であろう。
私自身もそうだが、原作を読んで典子のファンになる人はかなり多いようである。
辰弥が美也子と恋仲になれば、必然的に典子の存在は抹消されてしまう。
﹁妹が存在しない慎太郎﹂が登場する作品も多い︵1978年版・1991年版・2004年版︶。
辰弥が誰とも恋仲にならない作品のうち、唯一典子が登場するのが1996年版︵豊川悦司︶である。
辰弥と深い仲にこそならないものの、﹁妹的な存在﹂として、それなりに重みのある役割を担っている。
時間的制約を回避するための処置と考えれば、まあ何とか許容できる設定だともいえる。
ネット上には一柳鈴子が混ざっているんじゃないかという意見もあった︵琴も弾くし︶。
なるほどね……
2019年版では、最後に典子が辰弥の﹁押しかけ女房﹂になってついていった。
賛否両論あるだろうが、典子の人物設定を外してはいないと思う。
﹁美也子と両立させる﹂ことにしてしまった以上、典子自身に関する設定の多くを事件解決後に先送りせざるを得ないわけであるから、その制約下での設定としては妥当なところと言えるかもしれない。
美也子の毒気に対する清涼剤の役割が重視されていた可能性もある。
典子が鍾乳洞内を既に熟知しているという設定には、少々考え込んでしまった。
このような設定にした意図は明らかである。
辰弥や金田一が改めて洞内探検する必要を無くして、時間を大幅に稼ぐためである。
人物設定的にも原作より少し活動的にすればハマるという意味では無理は無い。
しかし、いくら何でも熟知し過ぎじゃないかという気がしないでもない。
春代の想い
辰弥を巡る恋模様ということになると、春代のことも欠かせない。
ただこれについては、﹁実は姉弟ではないということを最初から知っており、それゆえに恋をする﹂という原作の設定が、初期の1951年版・1969年版を除いて基本的に残されているので︵2004年版︵稲垣吾郎︶は﹁知っていた﹂かどうか怪しいが︶、あまり議論の余地が無いともいえる。
ただ、その想いを死の直前に告白されるまで辰弥が気付かないという設定も維持している作品が多い中で、2019年版では辰弥が春代に﹁変な気を起こさないでください﹂と明白に拒絶の態度を示す科白があった。
これは美也子が辰弥を積極的に篭絡する設定の結果であろう。
美也子に本気になっている辰弥は、美也子があからさまに春代に敵意を示していることにも気付いているわけである。
改変経緯のまとめ
というわけで、「美也子の設定変更=典子の抹消」に関する経緯を改めて整理すると、以下のようになる。
- 元々「八つ墓村」は忠実に映像化するには尺が足りないという問題がある。
- 1977年版(渥美清)は原作の重要な要素を大胆に削除して(話を変えてしまって)尺を確保した。その一環として、
- 「自信喪失状態の里村慎太郎と結婚したい美也子が田治見家の財産を継がせようとする」という犯行動機の放棄
- 慎太郎から解放される形になった美也子を、辰弥と本気で恋仲になる設定に変更
- 必然的帰結として、典子の抹消
が行われた。
なお、1969年版(金内吉男)は、この変更の一部を先駆けしている。
- 古谷一行版テレビドラマ(1978年版、1991年版とも)がこの方針を踏襲した。
- 金田一ブームを支えた「1970年代の劇場映画」と「古谷一行」が揃って同じ改変を採用したことにより、「改変された美也子」のイメージが定着してしまった。
- 1995年版(片岡鶴太郎)は原作とも1977年版とも異なる美也子像を創作し、里村兄妹は登場させなかった。
- 1996年版(豊川悦司)で、ブーム以降では初めて「原作通りの犯行動機」になったが、典子の設定を原作通りにまで深める尺的余裕は無かった。
- 2004年版(稲垣吾郎)も「原作通りの犯行動機」としたが、典子の設定を深めようとはせず、逆に存在を抹消した状態に戻ってしまった。
- 2019年版(吉岡秀隆)は、別の部分での尺の切り詰めを徹底し、「原作通りの犯行動機・原作通りの典子」と「イメージが定着してしまっている改変美也子」を両立させるという難題に取り組んだ。
2019年10月19日初稿/2022年12月12日最終改訂
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