第二次世界大戦後、日本を支配下においた米軍は、日本の軍事機密となっていた地図とその原版を大量に接収し、米国に送っていた。その地図が近年発見され、注目を集めている。
日本軍の地図はアジアの多くの地域を網羅し、地形に加え、気候、輸送システム、現地の生活の情報が詳細に記されていた。こうした情報は侵略や占領の計画立案に使われたと思われ、一部には敵国に送り込まれたスパイが収集したものもある。
これらの地図は﹁外邦図﹂と呼ばれるもので、米国にとって諜報活動に役立つ貴重な資料となった。敗戦国の情報だけでなく、新たに台頭してきた敵、すなわちソビエト連邦の情報も含まれていたからだ。米国陸軍地図局は、こうした戦略上重要な資産を1カ所に保管しておくのは無謀と考えた。核攻撃でも受けようものなら、すべてが失われてしまう。そのため外邦図は、図書館や施設など全米数十カ所に分散して保管された。
埋もれた地図のゆくえ
だが、そうした地図は何十年もの間放置され、ほとんど忘れ去られてしまっていた。
そして現在、アジアの地政や環境の歴史を研究するために活用しようという学者たちによって、その埋もれた地図の“発掘”が少しずつ進んでいる。﹁これらの地図は、歴史を研究する上で非常に貴重な資料となります﹂と米スタンフォード大学で東アジアの歴史を研究するカレン・ワイゲン氏は話す。
約8年前、スタンフォード大学の大学院生だったメイユ・シェイ氏︵現オハイオ州立大学教授︶は、構内にあるフーバー研究所の巨大な書庫にたくさんの古いアジアの地図が保管されているという噂を耳にし、調査を始めた。シェイ氏の研究テーマは古代中国の漢王朝。2000年以上も前に繁栄した王朝について論文を書いていたが、研究に関連する考古学上の遺跡のほとんどは、長い年月とともに風化したり、中国の産業化に伴って地中に埋もれたりしてしまったとシェイ氏は説明する。そのため、現在の地図や衛星写真では見られない重要な手がかりが、古い地図に隠されているかもしれないと考えたのだ。
やがてシェイ氏は、同大学のブラナー地球科学図書館の地下に、引き出しが並ぶ暗い部屋を見つけた。﹁中のものを確かめるため、半日かけてすべての引き出しを開けました﹂。そして彼女が発見したのが、大学に保管されていた数々の旧日本軍の地図だ。それはかつて、フーバー研究所の屋根裏部屋から移されていたものだった。
ブラナー図書館の館長ジュリー・スイートカインド=シンガー氏は、コレクションの整理を手伝うことを条件に、シェイ氏に地図を研究に使うことを許可した。その結果、図書館には約8000部の地図が保管されていたことがわかった。
日本と地図
ブラナー図書館はコレクションの研究のため2011年に会合を開き、旧日本軍の地図に詳しい小林茂氏︵現・大阪大学名誉教授︶を招いた。それまで小林氏の研究は日本語でしか発表されていなかったが、同氏はこの会合のために地図の歴史を詳しく説明した論文を英語で執筆した。︵参考文献‥小林茂﹁近代日本の地図作製と東アジア―外邦図研究の展望―﹂︶ 小林氏の論文によれば、旧日本軍は1870年頃から近隣諸国の地図を作成し始めたという。当初は、その国で入手した地図や西洋の地図を写していたが、さらに質のよい地図が必要だと感じた陸軍当局は、中国や朝鮮半島へ、海岸線や内陸部を調査する部隊を送り込むようになった。 19世紀末頃は、日本にとって危うい時代だったとワイゲン氏は話す。この頃、帝国主義のヨーロッパの国々はアフリカを分割支配するのに躍起になっていた。﹁もちろん、それを望まない日本は、植民地を得るか、植民地になるかという選択を迫られます﹂
小林氏の論文によると、当然のことながら、隣国で日本の測量技師たちが歓迎されるわけがなく、1895年には憤慨した朝鮮の人々によって、技師の助手たちが殺害されるという事件が起きている︵朝鮮は1910年から終戦まで日本に併合された︶。日本はその20年後、中国に秘密裏に測量部隊を送り込んだ。彼らは旅商人に変装し、コンパスと歩数による計測だけで地図を作った。
日本は古くから地図の複写に長けており、敵から奪った地図に注釈や細部を書き加えることで地図を作ってきた。たとえば、上のロシアのウラジオストクの地図には、キリル文字が残っているのが見てとれる。もちろん、日本の敵も同じで、1945年に作成され、かつて米国陸軍の地図に分類されていた下の沖縄の地図は、日本の地図を基に作られたものだ。
最近日本の地図に関する共著を出版したワイゲン氏は、次第に外邦図の質が上がり、種類も豊富になっていったと話す。日本軍は、他国の地勢図に加え、下の上海の地図のように、街の居留地の区分もすべて航空地図で作成した。そういった地図の多くには、海岸線への上陸可否や武器工場の場所など、戦略上重要な情報が日本語で書かれていた。南太平洋に浮かぶある島の地図には、現地の食生活や島唯一の製氷機のありかが記載されている。
地図の様式もバラエティに富んでいる。第二次大戦後に米国陸軍地図局で研究主任を務めたウィリアム・E・デービス氏もそれに気づいた。﹁戦時中、米国や英国は、地図の様式やデザインを標準化しようとしていた﹂と、デービス氏は1948年に記している。﹁しかし日本は正反対で、地図は個々の状況に合わせてデザインされていたため、色も記号も形式もざまざまだった﹂︵参考記事‥﹁戦争から参政権まで﹁訴える地図﹂9選﹂︶
外邦図が作られた地域は、北はアラスカやシベリア、西はインドやマダガスカル、そして南はオーストラリアまで広がっている。いったいどれくらいの地図が作られたのかは誰にもわからない。その一番の理由は、軍が秘密裏に地図を作成し、米軍が迫る終戦間近に破壊命令を出していたことだ。
貴重な資料の保管に向けて
現在、スタンフォード大学では、これらの地図のスキャンを行っていて、現時点で7353部が完了。誰でも見たりダウンロードしたりできるよう、オンラインで公開されている。東北大学の図書館にも同じようなオンラインの大規模なコレクションがあり、日英の両方でインデックスがつけられている。小林氏の論文によると、日本国内で現存している地図は、作成に関わった者たちが破壊命令に背いて持ち出したもののようだ。
時とともに外邦図の戦略的価値は失われていった。しかし、小林氏やシェイ氏のような研究者にとっては、これらの地図が貴重な財産であることは変わりない。小林氏は、地図を森林伐採などの環境の悪化の研究に役立てられないかと考えている。﹁外邦図を調べることで、東南アジアや中国の地勢がどのように変化していったか、という研究が可能になります﹂と小林氏は語る。︵参考記事‥﹁南極から月面まで、ナショジオ100年の地図﹂︶
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