元日本ハム・多田野数人「何度も解雇されたことで、クビになる選手の気持ちがよくわかる」
●多田野数人の再就職先/前 日本ハム⇒BCリーグ石川 選手兼任コーチ
◆「何度も解雇されたことでクビになる選手の気持ちがよくわかるようになりました」
日本球界に復帰した松坂大輔︵ソフトバンク︶を筆頭に、昭和55年生まれの選手は豊作だ。中でもアメリカで5年、日本で7年、日米通算で12シーズン活躍した多田野数人は“松坂世代”の中でもひと際異彩を放つアスリートだ。
立教大時代は右のエースとして活躍、’02年のドラフト会議では上位指名が確実視されていたが、右肩右肘の故障などが重なり指名は見送られた。
新たな活路を見いだすためクリーブランド・インディアンスにテスト入団した多田野は、’03年からマイナーリーガーとしてプロのキャリアをスタートさせた。
﹁もちろん通訳なんていませんでしたから、毎日が必死。常に100m走を全力で走っているような状態でした﹂とふり返るプロ1年目は、底辺の1Aから2A、3Aとトントン拍子に昇格。2年目の開幕をメジャー予備軍の3Aで迎えた多田野は、’04年4月24日、通算21人目の日本人メジャーリーガーとなった。高校時代は甲子園、大学時代は神宮の大舞台を経験してきた多田野をもってしても、メジャー初登板は﹁あれほどの緊張はない﹂と。その後、CCサバシア、クリフ・リーというメジャーを代表するサウスポー2人と共に先発ローテーションを組んだ。
﹁僕の場合、プロのキャリアはアメリカから始まったので、今でも基準はアメリカです。だから最初に日本ハムに入ったときは、ギャップを感じました。普通の日本人選手にはわからない感覚でしょう。最初のシーズンはボークを7回も取られましたからね︵笑︶﹂
日本球界から敬遠された多田野は、クリーブランド入団後もオークランドへトレード。オークランドを解雇、日本ハムがドラフト指名。3シーズンで解雇、直後に再契約。そして昨季終了後には日本ハムを退団したキャリアを持つ。
﹁何度も解雇を味わったことで、解雇された選手の気持ちがわかるようになりました。普段はふざけ合っている仲間も、解雇を通達されると声をかけてこなくなる。解雇されると気持ちが内側に向いてしまい、孤独を感じる。だから仲間が解雇されたとき、僕は積極的に声をかけるようにしています﹂
日本ハムに入団時には、同級生の“恩人”が声をかけてくれた。
﹁森本稀哲︵現西武︶は空気を読む天才。きっと彼も︵汎発性脱毛症で︶苦労したと思うんです。入団時、彼が積極的に話しかけてくれたから﹃稀哲が話しているなら、あいつ︵多田野︶と話していいんだ﹄って空気をつくってくれた。だからすんなり仲間ができたんです﹂
本音はNPBで現役を続けたかったという多田野。しかしNPB球団からのオファーはなく、日本ハム時代の先輩・木田優夫︵今年より日本ハムGM補佐︶の紹介で、今年から独立リーグ石川ミリオンスターズの投手兼任コーチとなる。
﹁独立リーグからNPBに入るだけでなく、NPBで活躍できる選手を育てたい。超満員のメジャーの球場や、日本シリーズで投げたときは、大観衆に背中を押されて持っている以上の力が出せた。大勢のファンの中でプレーすることは野球選手にとって幸せなこと。僕が経験させてもらったあの素晴らしさを、ひとりでも多くの選手に味わってほしいんです﹂
ファンの声援を力に変える術を知る多田野は、指導者としてのキャリアをスタートさせる。
︻多田野数人︵ただのかずひと︶︼
’80年生まれ。立教大卒業後、単身渡米。日本のプロ野球を経由せずメジャー昇格を勝ち取った2人目の選手。代名詞となった山なりの超スローボールで人気を呼ぶ。今季よりBCリーグ石川ミリオンスターズの選手兼任コーチに就任
●成績
︵MLB︶2年間15試合︵54.1回︶1勝1敗
︵NPB︶7年間80試合︵331.1回︶18勝20敗
取材・文/小島克典︵スポーツカルチャーラボ︶ 撮影/渡辺秀之
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