稼業は電気屋だった
大矢知の父親は脱サラして﹃大矢知デンキ﹄という電気屋を経営していた。小学生の頃から店番をやらされていた大矢知は﹁いろいろな電化製品が入ってくる電気屋って面白いな﹂と子供心に思った。 ﹁大矢知家は代々商売をしてて、曾祖父は明治時代、造り酒屋をしてすごく儲けたらしいです。祖父は洋品屋をやってたし、親父は電気屋でした。みんな一代で廃業してしまったんですけどね︵笑︶。自分にもそういう血が流れてるのかな?って感じます﹂。 高校は鈴鹿高専に進んだ。電気屋だから高専に行かなければ、という漠然とした考えだった。 ﹁受験で初めて高専に行った時は驚きました。建物も体育館も何もかも立派で、自動車のコースやコンピュータ室まであるんです。田舎の中学生が大学のキャンパスにやってきた!みたいな感じでした。競争率は高かったんですが、なんとか合格しました。でも3年生ぐらいから勉強しなくなって、本ばかり読んでました。電気屋を継ぐんだから勉強なんて必要ない、と思ってました﹂。大矢知デンキで働きはじめる
高専を卒業した大矢知は、父の経営する大矢知デンキで働きはじめた。給料は安かったが、店の顧客の子供さんの家庭教師をして小遣いを稼いだ。仕事はそこそこやって、後はバンド活動やアマチュア無線等の趣味を楽しんだ。アマチュア無線の専門店が大須にあって、大矢知はせっせとそこに通った。そのショップの店頭にマイコンが売っていた。 ﹁当時はまだワンボードマイコンと言われていて、基板に必要最低限の入出力装置がついたシンプルなものでした。友達の影響でマイコンを触るようになったんですけど、すぐとりこになりました﹂。パソコンの販売を開始
その後、コンピュータ本体とキーボード、モニタ、フロッピーディスクドライブなど、必要な周辺機器を一体化したオールインワン・コンピュータが発売されるようになり、これらは﹁パソコン﹂と呼ばれるようになった。1978年にシャープからMZ-80Kが、1979年にNECからPC-8001が発売され、本格的なパソコンの時代が到来した。 ﹁これからはパソコンだ!﹂と思った大矢知は、1980年8月、大矢知デンキでパソコンを売り始めた。仕入れ先はテレビや冷蔵庫と同じ家電メーカーなので、仕入れることが可能だった。 ﹁当時、パソコンを販売している店は三重に5軒ぐらいしかなくて、家電量販店ばかりでした。量販店の店員はパソコンのことなんてほとんど知りませんよね。だから﹃大矢知の小さい電気屋に詳しい兄ちゃんがいて色々教えてくれる﹄ってことがパソコンマニアに知られるようになって、遠くからわざわざ買いに来てくれるようになりました﹂。マイクロキャビン四日市設立
その頃、オフコン︵オフィスコンピュータ︶を導入して給与計算等をする企業が増えはじめた。鈴鹿高専でプログラミングを学んだ大矢知は﹁自分でもその程度のプログラムは作れるんじゃないか?﹂と思った。 ﹁給与計算用オフコンの値段が200万~300万。でも性能は20万30万のパソコンとかわらないんです。パソコン用の給与計算プログラムを作ったら売れると思いました。それで、やってみたら簡単にできました︵笑︶﹂。 自信がついた大矢知は、知り合いだった伊藤製作所の伊藤澄夫社長に﹁給与計算用のプログラムを作らせて欲しい﹂と頼んだ。伊藤製作所給与計算プログラムは紆余曲折あったものの無事完成。そのプログラムは四日市のビジネス界で評判になり、大矢知は四日市の有名な会社が集まる組合の主催する勉強会に講師として呼ばれるようになった。そこでまたパソコンが売れた。 ﹁これは商売になる!﹂と確信した大矢知は、独立して自分で店を出すことにした。1981年11月、父親に借りた150万円を元手に、四日市三栄町にパソコンショップとパソコン教室﹃マイクロキャビン四日市﹄をオープンさせた。 ﹁オープンする前の3日間は不安であまり眠れなかったけど、オープンしてからはずっとイケイケでした︵笑︶。考えたことが全部当たるんです。このゲーム売れるぞ!って思うと本当に売れるんですよね﹂。ミステリーハウス発売
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本社ビルを建設
![マイクロキャビン本社](http://plus-mie.jp/wp-content/uploads/2021/07/honsya.jpg)
スーパーファミコンの台頭
1983年、任天堂がファミリーコンピュータ、いわゆる﹁ファミコン﹂を発売。その後継機として1990年、スーパーファミコンが発売された。低価格ゲーム専用機の登場により、パソコンでゲームをやる人は徐々に減っていった。順風満帆だったマイクロキャビンの業績に陰りが見え始めた。 スーパーファミコンは開発費がすごくかかった。開発するには任天堂から開発ツールを買う必要があったが、ツールの値段はひとり1千万。10人だと1億必要だった。開発費がかかり過ぎるということで、大矢知はスーパーファミコンに参入するのは見送り、パソコン主体のゲーム開発を続けた。![大矢知直登](http://plus-mie.jp/wp-content/uploads/2021/07/nintendo.jpg)
OEMによる開発をはじめる
大矢知は経費がかかる自社開発からOEM︵自社で開発した製品を他社ブランドで販売すること︶にシフトチェンジすることにした。 ﹁面白いゲームを作る力はありますから、OEMに力を入れることにしたんです。宣伝はすべて販売元にまかせて、うちは開発に専念すればいいですからね﹂。 1995年、セガにセガサターン用のゲーム制作を持ちかけ、その後とても有名になるセガのプロデューサーと協力してセガブラン ドで﹃リグロードサーガ﹄というタイトルを発売。﹃リグロードサーガ﹄は30万本を売るヒット作となった。その後もマイクロキャビンはいろいろなゲームをOEMで発売していった。OEMは会社に十分な利益をもたらした。 ﹁ただOEMには優秀な人材が集まりにくいというマイナス面がありました。﹃マイクロキャビンのゲームが好き﹄という理由で入社してくる人が減ってしまうんです﹂。次世代ゲーム機戦争勃発
1994年にセガからセガサターン、ソニーからプレイステーションが発売された。どちらもスーパーファミコンを遥かに凌ぐスペックで、いわゆる﹁次世代ゲーム機戦争﹂が勃発した。 ﹁ゲームの実績からいったらソニーよりセガの方がはるかに上でした。当時、有名なアーケードゲームのほとんどがセガサターンでプレイできました。セガが勝つと思った人のが多かったんじゃないかな? だからうちもセガサターンをメインに開発していました。当時はよほど大きいソフトハウスじゃないと、両方作るというケースは稀だったんです﹂。 セガサターンは順調に販売数を伸ばし、﹁次世代ゲーム機戦争﹂はセガが勝利すると思われた。しかし、1997年にスーパーファミコンの超人気タイトル﹃ファイナルファンタジーⅦ﹄のプレステ版が発売されると、流れが変わった。﹃ファイナルファンタジー﹄をやるためにプレステが飛ぶように売れた。その後﹃ドラゴンクエスト﹄のプレステ版も発売され、プレステの勝利が確実になった。 ﹁結果論ですが~乗る船を間違えた~ということだったんでしょうね。1990年代の後半は、もう状況判断と決断の繰り返しでした。どこのハードのものを作るか?自社ブランドで出すのかOEMでいくのか?といった感じで。固定費が月4千万、年間5億ぐらい。10億売れたら5億儲かる、5億だったらとんとんというというシビアな世界なので、判断を間違うと大変なことになるんです﹂。パチンコ向け映像ソフト制作に着手
1999年、松下電器から﹁パチンコの液晶の画面を制御するボードを開発したのでソフトを作って欲しい﹂という依頼があった。ゲーム開発のノウハウがそのまま活かせる仕事だった。 ﹁マイクロキャビンはそこそこ有名な会社だったんで、日本中から優秀な人材が集まってきました。でもOEMに徹するようになってからは、優秀な人は集まりにくくなっていました。将来的なことを考えると﹃このままゲームメーカーとしてやっていくのは難しいんじゃないか?﹄と思うようになりました。それで、パチンコ向け映像ソフト制作の仕事を請けることにしました﹂。 マイクロキャビンが制作したパチンコ向け映像ソフトは大ヒットした。マイクロキャビンはゲームメーカーからパチンコ向け映像ソフト制作会社に変わっていった︵現在のマイクロキャビン、田中社長のインタビュー記事︶。 ﹁その頃から会社を売却することを考えるようになりました。パチンコ向け映像ソフト制作がメインの仕事になると僕の出番もあまりないですし、それに社員のことを考えたら、なるべく大きな会社の傘下に入る方が安定しますからね﹂。会社を売却しリタイア生活へ
2008年、大矢知はマイクロキャビンをゲームメーカーのAQインタラクティブに売却。三重県や四日市市の公的な仕事のお手伝いをしながら、旅行やスキューバーダイビングなどの趣味を楽しむ悠々自適な生活に入った。 ﹁あの時こっちの道を選んでいたら、今頃、日本のビジネス界を牽引するような人物になれたかも、と思うことはないですか?﹂という質問に、大矢知はこう答えた。 ﹁そうですね、可能性としてはあったでしょうね。孫さんとか当時、普通にしゃべっていた人が今、有名になっていますから…。でも逆の可能性もあったわけで、当時あったソフトハウスの多くが今は存在していません。有名な会社の社長さんだった人が孤独死したとか、行方不明になったという話を聞くと、自分はうまくやったと思います。パチンコ向け映像ソフトの仕事を軌道に乗せて、会社の価値を維持したまま売ることができたんですからね。ゲームの仕事から離れた事も、決断に影響したと思います。今もゲーマーなので︵笑︶﹂。大矢知直登氏プロフィール
[…] ■株式会社マイクロキャビン創業者 / 大矢知直登http://plus-mie.jp/2021/07/29/ooyachi/※元マイクロキャビンの同僚がいたなあ。地元では有名なゲーム会社。ミステリーハウスは紹介記事を読んだだけでわくわくしたなあ […]
fishheadpm News様、記事を紹介して下さってありがとうございました。