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日本に来てうなぎや刺し身が好きになった
蒲焼きは静岡も有名ですよね。掛川にもすごくおいしいウナギ屋さんがありました。エスパルスにいたころ、奥さんのご両親が来たときは掛川まで行って食べていたくらいでした。静岡で食べていたのは﹁うな重﹂でしたね。 浦和に行って、﹁白焼き﹂というメニューを見て、ちょっと食べてみようと思いました。カリカリとしていて、さっぱりとしてて、これがまたおいしい。こういう食べ方もあるのだと思って感激しましたね。 うな重のソースは甘辛で、ご飯に絡んでおいしい。醤油をかけた白焼きはさっぱりしててご飯が進むのです。その後、名古屋に行ったらまた違う﹁ひつまぶし﹂という食べ方がありました。ひつまぶしも本当に好きです。 ブラジルでは、うなぎはなかなか食べないですね。僕の両親に日本ではうなぎを食べていると言ったら、﹁そんなの食べられないでしょう!﹂と驚いていました。それで日本に来たときうなぎを食べに連れて行ったのですが、一口も食べなかったですね。ブラジルの人から見るとグロテスクなのでしょう。ヌメヌメしているイメージがあって、それを食べるというのは考えられないのです。 僕も日本に来たばかりのときは食べられなかったですからね。寿司もずっと苦手でした。エスパルスに行ったときもなかなか食べられませんでした。僕がブラジルで住んでいた街は海から遠かったので、魚は新鮮じゃなかったし、値段も高かったですからね。あまり食べていませんでした。 それでお刺身がおいしいと思えなかったのです。でもあるとき、エスパルスの先輩が﹁これが食べられなかったら、もう勧めないから﹂と連れて行ってくれた店の刺身が素晴らしかった。そこから少しずつ味に慣れてきて、食べられる魚が増えていきました。 お、白焼き、来ましたね。ライス付いてない? ちょっと付けてもらっていいですか?いやぁ、これはうまいはずですよ。やばいね。ちょっとだけ醤油を垂らして。いただきます。![f:id:g-mag:20170927105149j:plain f:id:g-mag:20170927105149j:plain](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/g/g-mag/20170927/20170927105149.jpg)
﹁﹃言葉の選択が上手い﹄という反応がありました。日本語の習得は大変だったのでは?﹂ 日本語の勉強は大変でしたね。最初は相手の言葉が理解できても話せませんでした。しばらくすると話せるようになるのですが、間違うのが恥ずかしくてなかなか話さない。僕はそういうタイプでした。 間違ってもいいからどんどん話したほうが、はやく話せるようになるのでしょうね。でも笑われるのがイヤで、ちょっとしか話しませんでした。笑われてもいいから話してみて、それで違うと教えてもらったほうが、時間はかからないのでしょうが。だからちょっと時間がかかりました。1年目で話がわかるようになって、2年でかなり話せるようになり、3年で困らないようになりました。 今はブラジルに帰ってポルトガル語を話しているのですが、ブラジルでもゆっくり話しています。ちょうど日本に来たときと逆の状態になっていて、今度はポルトガル語の言葉を選んで間違わないように話しています。 ﹁全盛期のドリブルを思い出す人が多かったようです。﹃前目のポジションでもっと見たかった﹄という声もありました。好きなポジションや今でも思い出す試合は?﹂ サイドバックや左のアウトサイドでプレーしましたが、僕はエスパルスでプレーしていた左のアウトサイドMFが好きでした。エスパルスのときは右サイドに市川大祐がいて、左からだけじゃなくて右サイドからも突破していたので、バランスがよかったと思います。 もし左サイドばかりで仕掛けていたら、きっと相手も守りやすかったでしょうし。それに中盤にうまい選手がいましたよね。澤登正朗さんとか伊藤輝悦さんとか。だから中央からも攻めることができたので、それもよかったのでしょう。 2002年日韓ワールドカップのときは、自分でもキレキレだったと思います。僕は、昔を振り返って後悔することがあまりないのですよ。やらなければいけないことは、いつも全力でやっていたので、﹁もっとやっておけばよかった﹂という気持ちにはなりません。 ただ、トルコ戦は後半も出たかったですね。トルコ戦は先発したのですが、最初は自分のよさを出せませんでした。それでも初めて組んだアキ︵西澤明訓︶と、お互いの動きを確かめながら次第に仕掛けられるようになったのに交代させられちゃいましたからね。試合後、フィリップ・トルシエ監督から﹁君を代えて後悔したよ﹂って言われて﹁それは言わないでよ﹂と思いましたよ。 ﹁﹃国籍は日本、家族はブラジル﹄という状態を自然体で受け入れている姿に注目した人もいました。でも苦労などあるのでは?﹂ 自分は日本人になって、家族がブラジル人で、という寂しさはないですね。家族は家族ですからね。常に家族のことを考えてやっていましたし。2014年に、ちょっと立ち止まったほうがいいと思ってブラジルに帰りました。 本当はサッカー選手としてもっと日本でプレーしたかったのですが、でもやはり親の年齢が上がってきて、父が今年で72歳、母が67歳ですから、あとで後悔したくなくて。今、親孝行しなければ、いつできるのだろうって。 ブラジルに戻ったのがちょっと遅かったかもしれないとも思いましたが、サッカー人生を最後まで楽しめたという気持ちもありますし、いろんな経験もしました。いいクラブに行ったし、J2の下のチームにも行きました。 それは勉強になりましたね。サッカープレーヤーとしてだけではなくて、監督になったときに子どもたちの成長に繋がる経験を十分にしました。それを伝えられると思います。
﹁﹃もし日本人になっていなかったら﹄の部分にとても大きな反響がありました。高校生で日本へ来るのは難しい選択だったのでは?﹂ すぐにチャンスが来る選手もいますが、ほとんどの人には簡単に現れません。だからちょっとしたチャンスがいつ来てもいいように、しなければいけません。 僕がスカウトされて日本に行かないかと誘ってもらったときが、そういうチャンスでした。もしあそこで日本に行かなかったら、自分は何をしていたんだろうと、ときどき思います。ワールドカッププレーヤーになっていなかったかもしれないし、ブラジルでもサッカーを諦めて普通に仕事をしていたかもしれない。 子どものころのチームメイトで、僕よりもうまかった選手もプロになれていませんでしたし。僕は、もしあのチャンスをつかんでなかったらどうなってたんだろうなって。 僕には運もあったと思います。実力もあったかもしれませんが、ちゃんとチャンスとタイミングが合いました。日本からのスカウトが来ている試合に出られたのは、それまで一生懸命頑張っていたから出場するチャンスをもらえたのでしょう。だから運も必要ですけれど、運だけではチャンスは生まれないのです。 ﹁日本人になってくれたことへの感謝の声が多数ありました。どう思いますか?﹂ ﹁日本人になってくれてありがとう﹂というコメントはうれしいですね。いやぁ、本当にうれしいですよ。もちろん帰化をしたのは誰かに認めてほしかったというのではなくて、自分も日本人になりたかったからですが。 サインを求められるのはうれしかったですね。サインがほしいと思ってもらえる選手になったのだって。だけどA型だからサインを書くのに手を抜けなくて。僕は丁寧にサインしないとダメなのです。だから他の選手がみんながサインを書き終わってもまだ書いていました。それでからかわれたりしていましたよ。 ワールドカップに出たいから帰化するのだろうという人もいました。でも、日本人になったからといって、日本代表に入れるわけではない。日本人になっても、そこから先の道もまた頑張らないといけない。それでも日本代表はいい目標にもなったので、頑張れたと思います。代表選手になるチャンスを与えてくれた日本だから、と頑張ってやってましたね。 当時、韓国や中国と試合をするとき、なぜか僕はカッカしていました。なぜか血が騒いでましたね。﹁負けたくねぇな﹂って。相手にいろいろやられると、他の選手がみんな﹁冷静に!﹂と言っているところで、熱くなって﹁やられてんじゃないか!﹂﹁おい!みんなやろう!﹂なんて叫んでいました。あの当時、中田英寿と言い合えるのは僕ぐらいでしたね。試合が終わった後は冷静になるから、いじられ役になるのですが……。 ﹁ブラジルで子どもたちにチャンスを与えている現在の活動に驚いている人もいました﹂ ブラジルでクラブを作って、U-15のチームで大会に出ました。7月3日に地域で優勝して、16日にはサンパウロ圏内の大会に出て優勝したのです。チームを作って4カ月でした。僕はクラブのオーナーが、現場にも出て怒ったりしています︵笑︶。 指導の方法は日本式ですよ。﹁みんな、キチンとして!﹂って。クラブのマークは忠犬ハチ公をモチーフにした秋田犬です。みんなに忠犬ハチ公の話を教えて、﹁そういう気持ちを持ってやりましょう﹂﹁監督は選手のために、選手は監督のために﹂と教えています。 クラブはサッカースクールだけじゃなくて、U-15のチームが結果を出したのでU-13、U-11、U-9、U-7のチームもスタートすることになりました。ユニフォームの首元には日の丸とブラジル国旗をあしらっています。クラブのマークには日の丸の模様も入っています。
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三都主アレサンドロ プロフィール
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取材・文‥森雅史︵もり・まさふみ︶
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