2017-02-14 貧乏になる人の特徴 冗語 Tweet Share on Tumblr Share on Tumblr ■貧乏になる人の特徴 私には、わりと幅広い所得階層の友人がいる。有名大学出身の経営者や金融マンから、ワーキングプアのフリーターまで、様々な階層の人と付き合っている。そして、貧乏な人ほど﹁自分には運がない﹂とぼやく。 ところが、詳しく話を聞いてみると、貧乏な友人たちは﹁悪運を引き寄せるような生活習慣﹂を持っている場合が多い。スーパーナチュラルでスピリチュアルな話をしたいわけではない。彼らは、偶然を合理的に操作できないのだ。 彼らの語る﹁不幸﹂の例は、いずれも回避可能なものばかりだ。 たとえば﹁5万円するクロスバイクを盗まれた﹂﹁肝心なときにパソコンが壊れた﹂﹁病院に行ったら重たい病気が発覚して治療費がかさんだ﹂等々。一見すると、たしかに運が悪そうに思える。が、話をよく聞くと、不幸を回避する努力をしていない場合が珍しくない。 ﹁自転車を盗まれたら嫌だな〜って、前から思っていたんだよねw﹂なんて笑っているのだ。いや待て、笑いごとじゃない。盗まれそうだと思っていたなら、なぜ部屋の外に最低限の施錠だけで停めておくんだ。頑丈な鍵をつけるか、部屋の中で保管すべきだろう。 ﹁パソコンがすぐに壊れる﹂と言うけれど、デスクトップパソコンを埃っぽい部屋で床置きしていれば当然だ。﹁前から体の不調には気づいていたんだけど…﹂というのなら、病気が重くなって治療費が跳ね上がる前に診察を受けるべきだ。 世の中には﹁良い偶然﹂と﹁悪い偶然﹂がある。 幸運を引き寄せたいのなら、良い偶然が起こりそうな行動を増やして、悪い偶然が起こりそうな行動を減らせばいい。サイコロを1回振っただけでピンゾロを出すのは難しいが、100回振ればかなりの確率でピンゾロを出せる。偶然を操作するとは、そういうことだ。 ところが貧乏な友人たちには、それができない。 ﹁悪い偶然﹂が起きる可能性を潰さずに放置してしまう。それでいて、﹁良い偶然﹂が起きる可能性を増やそうともしない。運がないから﹁希望の就職ができなかった﹂﹁小説の新人賞を取れなかった﹂と嘆く。しかし話をよく聞くと、そもそも志望先の企業を絞りすぎてごくわずかなエントリーシートしか送っていなかったり、数年に一度しか新人賞に投稿していなかったりする。施行回数があまりにも少ないから、幸運を引き当てられないのだ。 なぜ貧乏な友人たちは、偶然を操作できないのだろう? 幸運を引き寄せようとせず、悪運を回避しようとしないのだろう? ※記事は下に続きます。 ■スタンフォード大学のマシュマロ実験 vimeo.com ※マシュマロ実験の被験者になった子供たちの映像。ちょっと可哀想である。 ﹁マシュマロ実験﹂という、有名な心理学の実験がある。 4歳児にマシュマロを見せて、﹁15分間食べるのを我慢できたらもう1つあげよう﹂と言うのだ。我慢できた時間が長かった子ほど、将来、社会的に成功しやすく、短かった子ほど学校で問題行動を起こしたり、学業成績が低くなりがちだったという[1]。 マシュマロ実験が測っているのは、﹁報酬を遅延させる能力﹂だといえる。将来の利益や効用を増大させるために、現在のそれを我慢する能力だ。 貧乏な友人たちが偶然を操作できないのは、おそらく、この﹁報酬を遅延させる能力﹂が低いからだ。自転車が盗まれたら嫌だけど、盗まれない工夫をするのはお金も時間もかかる。ストレスが発生する。このストレスに立ち向かうのではなく、何か他の、目の前にある楽しいことを優先してしまう。昨日まで盗まれなかったのだから、きっと明日も大丈夫だろう……と、自分に言い聞かせてしまう。 同じことが、パソコンの故障にも、病気にも言える。 たとえ悪い偶然が起きる可能性があっても、それを回避する努力にはストレスがともなう。日常のルーチン化した行動を変更しなければならないからだ。昨日までの行動を変えるのは、誰にとっても苦痛だ。報酬を遅延させられない人は、この苦痛に耐えられない。目先の、もっと簡単で楽しいことに飛びついてしまう。だから、悪運を避けられない。そしてますます貧乏になっていく。 実験の対象が4歳児だったことから分かるとおり、報酬を遅延させる能力は、生得的な影響が大きいようだ。生まれつき我慢強い人もいれば、そうでない人もいる。けれど、個人的な経験から言えば、この能力はトレーニングによって伸ばすこともできるだろう。 ヒトは生まれつき苦手なことはあっても、絶対にできないことは案外少ない。そういう生き物だ。 ■文明の発展と時間選好の低下 現代文明における経済的成功と﹁報酬を遅延させる能力﹂との間に相関があるというのは、とても興味深い。というのも、文明の発展にともなって、人類のこの能力も発達してきたらしいからだ。 ヒトには﹁時間選好﹂という習性がある。何かを消費する際に︵他の条件がすべて同じなら︶後で消費するよりも今すぐ消費することを好むという傾向のことだ。﹁報酬を遅延させる能力﹂とは、時間選好を抑え込む能力だと言い換えられる。 たとえば、なぜこの世界に﹁利子﹂が存在するかといえば、それは私たちが時間選好を持つからだ。定額預金に100万円を預ければ、しばらくその100万円を使うことを我慢しなければならない。なぜそんな我慢が可能かといえば、満足できるだけの利子が付くからである。︵※現在のように超低金利の時代ではあまり説得力がないかもしれないが……︶ 歴史的に、利子率は低下してきた。 たとえば古代~中世の日本には﹁出挙(すいこ)﹂という稲粟の貸し出し制度があった。春に種を貸し出して、秋には元利とともに返済するシステムだ。官によるものを﹁公出挙(くすいこ)﹂と呼び、その利率は50%。一方、貴族や寺社による営利目的の私出挙の利率は100%で、つまり倍返しだった[2]。 より中央集権的な巨大文明では、かなり早い時期から利子率は下がっていた。たとえば紀元前3000~1900年のシュメールでは、銀を貸し付ける場合の利子率は20~25%。紀元前1900~732年のバビロニアでは10~25%だった。 紀元前5~紀元後2世紀のギリシャでは、不動産を担保とする貸付の利子率は10%程度だった。1~3世紀のローマ支配下のエジプトでは、土地を担保にした貸付の利子率は12%が一般的だった。現代に比べればはるかに高率で、また地域もバラバラだが、それでも時代が下るごとに利子率が低下するという大きな流れがあるようだ。 利子率、つまり資本収益率は、中世ヨーロッパでは10%強が一般的だったらしい。それが産業革命の直前には、4~5%まで下がっていた[3]。 時代とともに利子率が低下してきたことは、つまり私たちの時間選好が弱まってきたことを意味している。文明の発展とともに、法律が整備され、契約が厳密に果たされるようになった。カネを貸した相手が破産したら、裁判所がうまく処理してくれるようになった。現代先進国において、借金を回収するのに自警団や私設軍隊は必要ない。 文明が発展して、行政や制度が信頼できるものになるほど、時間選好を強くする必要がなくなる。一方で、時間選好の弱い人は、より信頼のおける行政や制度を求めるはずだ。周りの人よりも安い利子でカネを貸す気前のいい人は、そのカネを確実にを回収できるような制度を求めるだろう。 利子率がその時代の人々の時間選好を反映したものだとすれば、超低金利時代の私たちは極めて時間選好が弱いということになる。 一方で、人類の文明が時間選好の弱い人を優遇するように発展してきたとすれば、現代社会はそうでない人──時間選好が強く、報酬を遅延させる能力が弱い人──にとって、生きづらいものになっているかもしれない。 時間選好率は、幼い子供では極めて高く、年齢が上がるに従って低下する。実験的調査によると、米国人の六歳児の時間選好率は、一日あたり約三パーセントだという。つまり、この子供たちは一日あたり最低三パーセント、月利に直せば一五〇パーセントにあたる〝利子〟をもらえるときだけ、ごほうびをもらうのを後回しにできる、ということだ。時間選好率は同じ社会の構成員のあいだでも異なり、貧しく教育水準の低い人ほど時間選好率は高くなる。 ──グレゴリー・クラーク﹃10万年の世界経済史﹄ ■時間選好の強い人が経済を回す? 時間選好との関わりでいえば、最近ではファッション通販サイトZOZOTOWNの﹁ツケ払い﹂が注目に値する。これは購入した商品の代金を約二か月間猶予できるというもので、文字通り飲み屋のツケ払いをイメージしたサービスだ。 ZOZOTOWNを運営するスタートトゥデイは絶好調で、直近の四半期決算における商品取扱高は前年同期比+38.3%、3Q累計ベースの営業利益率は+64%と躍進している。﹁ツケ払い﹂を開始したことが、好業績を牽引したようだ[4]。 ﹁ツケ払い﹂は支払いを遅らせるだけなので、実態はクレジットカードの一括払いと大差ない。しかし学生のようにクレジットカードを作りづらい人にとってはありがたいサービスだろう。商品を購入した後で、支払いのためにバイトのシフトを増やす……といった判断もできる。 言うまでもなく、﹁ツケ払い﹂は時間選好の強い人に向けたサービスだ。 目の前に欲しい商品があって、手元のお金が足りない──。そんなとき、時間選好の弱い人は我慢できる。充分なお金が溜まってから買えばいいやと、ごほうびを遅延させられる。ところが時間選好の強い人は、そうはいかない。後払いで商品が手に入るなら、すぐさまポチってしまう。 加えて、ファッションという商品の特性が、消費者の時間選好を強める。 ファッションは個性を演出するものであり、さらに季節性の強い商材だ。今すぐ買わないと、目の前のイケてるアイテムを他の人に横取りされてしまうかもしれない。お金が入ってくるのを待っていたら、季節外れになってしまうかもしれない。他の商品なら我慢できる人でも、ファッションに対しては﹁今すぐ買いたい!﹂と感じがちだ。 ZOZOTOWNの﹁ツケ払い﹂は、消費者の時間選好をうまく利用した施策だといえる。消費者は商品を手に入れやすくなり、企業の業績も伸びた。ちょっとしたFinTechで、世の中が豊かになった好例だ。 一方で、消費者の時間選好は悪用されることもある。 時間選好の強い人は、カモにされやすいのだ。 先日、友人と安い居酒屋で飲んでいたときの話だ。彼もあまり所得は多くない……というか、世間的には少ない側の人物だ。いいちこのソーダ割をすすりながら、彼はケータイの通信制限を嘆いていた。 ﹁おっそ! ページが全然開かないだけどw﹂ ﹁まだ月の半ばなのに、どうして通信制限になってしまったの。そんなにインターネットを使う用事でもあった?﹂ ﹁家でYouTubeを見てたら、あっという間に通信量が増えちゃってさ﹂ ﹁家で? たしかWi-Fiがあったよね?﹂ ﹁電波を飛ばす機械が故障しているっぽくて、3カ月くらい前から使えないんだよね﹂ ﹁3カ月……って、早く買い替えなよ!﹂ ﹁分かってるよ。でも、意外とスマホで事足りちゃうんだ﹂ ﹁じゃあ、インターネットの契約をやめたら?﹂ ﹁やっぱりやめたほうがいいのかなぁ……。でも、契約を解除する方法が分かりにくくて、めちゃくちゃ面倒くさい﹂ つまり彼は、使いもしないインターネットプロバイダーに3カ月も通信料を支払っていたのだ。ITリテラシーの高い︵であろう︶はてなユーザーには信じられないかもしれないが、世の中にはこういう人が結構たくさんいる。 現在の日本では、契約を結ぶハードルがとても低い。何かのサービスに会員登録したり、アプリの利用規約に同意したりする機会に溢れている。注意深い人でも、自分が今いったい何個の契約を結んでいるのか、常に把握しておくのは難しい。面倒くさがりな人ならなおさらだ。 カジュアルに契約を取り交わせる反面、それを解除するのは簡単ではない。退会窓口は大抵、ページの目立たない場所に置かれている。何かの契約を解約するには、書類に記入したり、サポートに電話したり、複雑な手順が必要とされる。 そういう﹁面倒くささ﹂は、時間選好の強い人がもっとも苦手とするものだ。退会の意思確認ページをたらい回しにされるうちに、だんだんと嫌になってきて、最後には投げ出してしまう。あるいは書類の記入欄の多さにたじろいで、﹁明日やろう﹂と考え、そのまま放置してしまう。 カネを巻き上げる側からすれば、時間選好の強い人はいいカモなのだ。 はてなブロガーの池田仮名さんは、消費者の﹁うっかりミス﹂に付け込んで儲けるビジネスのことを﹁フールペナルティ型ビジネス﹂と名付けた[5]。わざと不注意が起こるアーキテクチャを作っておきながら、その不注意を責め立ててお金を巻き上げる商売のことだ。 時間選好の強い人は、フールペナルティ型ビジネスの餌食になりやすい。うっかりレンタルの返却日を過ぎてしまい、多額の延滞金を負わされたり、必要もないケータイのオプション契約をしてしまい、それを放置して延々とムダ金を支払ったり……。そういうミスを犯しがちだ。 そして、わずかな収入をかすめ取られ、ますます貧乏になっていく。 ■貧困は自己責任か? この記事では、貧乏な友人たちがいかにして貧乏に陥っていくのかを書いた。 彼らは﹁良い偶然﹂を起こす機会を減らし、﹁悪い偶然﹂が起きる可能性を残しがちだ。だから経済的成功を掴むことができず、払わずにすんだはずのカネを払ってしまう。時間選好が強くて報酬を遅延させる能力が低い人は、貧困に陥りやすい。 しかし、この指摘は政治的な問題を孕んでいる。 いわゆる﹁自己責任論﹂に直結するからだ。貧困は社会問題ではない、個人の怠惰さや愚かさの問題である。したがって、社会的に貧困者を救済する必要はない──。そんな暴論に繋がってしまう。 政治的に〝正しい〟人々は、貧困者を社会的な﹁被害者﹂だと見なす。この世界に貧困があるのは、世の中が悪いからだ。社会に歪みや不正義がはびこっているからであり、貧困者たちには何の責任もない。そう考えがちだ。 最近では、﹁ふたりの人生は何が違ったの?﹂というマンガが話題になっていた。 家庭環境に恵まれたリチャードと、そうでもないポーラという2人の人生を描いたマンガだ。物語の結末は、社長として成功したリチャードの演説会場で、ポーラがウェイトレスとして働いているシーンで締めくくられる[6]。 ※画像出典‥TABI LABO 成功の秘訣を訊かれて、リチャードは答える。﹁愚痴を言わずに努力せよ、と言いたいですね。お恵みを待っている人たちにはうんざりです。僕は、特別なものは何も与えられませんでした﹂ マンガの読者は、リチャードが両親から手厚い教育を受けてきたことを知っている。リチャードの﹁成功﹂が、どれほど周囲の環境に支えられているかを知っている。だから最後のシーンで、リチャードの発言の滑稽さが分かるという仕組みだ。 このマンガは、﹁育った環境﹂を経済格差の唯一の原因だと見なしている。また、政治的に正しい﹁貧困者無罪説﹂を採用している。ポーラが貧乏になったことに、彼女自身は何の責任もない。ただ、不運にも劣悪な環境に生まれてしまっただけだ──。そういう発想で描かれている。 なぜ政治的に正しい人々は、貧困者無罪説を採るのだろう? これはマスメディアにおける﹁理想的な被害者像﹂で説明できるだろう。 たとえば、家族を殺された人がピンクの服で出歩くと、周囲からバッシングを受ける。自家用車を買い替えれば、﹁慰謝料で豪遊している﹂と揶揄される。世間の人々は心のなかに﹁理想的な被害者像﹂を抱いており、そこから外れた相手は同情の対象ではなくなってしまう。 そして﹁被害者側に落ち度がないこと﹂は、理想的な被害者像のなかでも重要な点の1つなのだ[7]。 政治的に正しい人々は、いきすぎた経済格差は社会の犯罪だとみなす。貧困者はその被害者であり、救済すべき対象だ。もしも貧困者に落ち度があれば、彼らに同情できなくなってしまう。だから貧困者を、無垢で、無実の、ひたすら可哀想な人として描写する。ポーラは典型だ。 私としては﹁自己責任論﹂も﹁貧困者無罪説﹂も、どちらも極論だと思う。 貧困やいきすぎた経済格差が存在するのは、政府の経済政策の失敗だ。 格差があまりにも大きくなったり、所得階層が固定化されると、社会は不安定になる。貧乏人がどんなに努力しても金持ちになれない社会では、発明や創意工夫も失われる。その極端な例がアンシャン・レジームのフランスであり、1789年のパリだった。隣国イギリスに産業革命で遅れをとり、フランス革命で崩壊した。 貧困者を救い、経済格差を一定以内にとどめることは、政府の責務だ。 それは貧困者が可哀想だとか、そういう倫理的な理由からではない。治安を向上させることや、国民の創造性を刺激して経済を豊かにすることにつながるからだ。日本人すべてのメリットになるからこそ、政府は貧困に対処すべきなのだ。貧困は自己責任だから放置すべきという主張は、政府の存在意義に反している。 一方で、貧困者無罪説も極端な考え方だ。ある意味では自己責任論よりも冷酷な発想だといえる。 貧困者が貧しいのは本人の責任ではなく、政府の無策や育った環境が原因だという。この見方に立てば、貧困を抜け出すには政府がまともになるのを待つか、育った環境を変える──つまり、次の人生に期待する──しかなくなってしまう。もしも貧困者に何一つ欠点がないとすれば、それを改善して貧困を脱することもできない。現実に照らして、それはおかしい。 目の前にいる貧しい友人に、どんなアドバイスをすればいいか? 貧困から抜け出すには、どんな点に気を付ければいいか? 貧困者無罪説では、これらの疑問に答えられない。 貧困は自己責任ではなく、政府が責任を持って対処すべき──。マクロの視点では、この発想は完全に正しい。経済格差には育った環境の影響が大きく、貧困が連鎖しやすいというのも事実だ。 けれど、だからといって、友人に﹁政府が変わるまで諦めろ﹂とは言えない。少しでも豊かな生活をするために、手持ちのカードをどう切ればいいかをアドバイスしたい。私がこの記事で問題にしたいのは、ミクロの視点だ。個人レベルの努力で、貧しさを遠ざけることはできるかどうか、だ。 できる、と私は思う。 コンビニに行けば、一攫千金の方法を書いた本が並んでいる。もしも私が本当にお金を簡単に儲ける方法を知っていたとして、それを他人に教えようとは思わない。その知識を自分のためだけに使うだろう。ああいう本を読んでも、貧困から脱出できるとは思えない。 ﹁良い偶然﹂の起きる可能性を大きくして、﹁悪い偶然﹂を回避すること。 時間選好を抑えて、報酬を遅延させられるようになること。 たとえば﹁やるべきことを後回しにしない﹂とか、﹁面倒くさいことでも最後までやり遂げる﹂とか、そういうちょっとした心がけが、人生を大きく変えるのだと思う。 ■参考■ [1]﹁我慢できる人﹂は脳が違う?|WIRED.jp [2]板谷敏彦﹃金融の世界史﹄新潮選書︵2013年︶p26 [3]グレゴリー・クラーク﹃10万年の世界経済史﹄日経BP社︵2009年︶上p273-278 [4]ZOZOTOWN絶好調の背景に﹃ツケ払い﹄あり? - ゆとりずむ [5]不注意が起こるアーキテクチャを作っておきながら、不注意を責め立てて小銭を巻き上げる﹁フールペナルティ型ビジネス﹂ - 太陽がまぶしかったから [6]﹁ふたりの人生は、何がちがったの?﹂。格差社会にメッセージを投げた漫画 | TABI LABO [7]津田正太郎﹃メディアは社会を変えるのか﹄世界思想社︵2016年︶p173-177